展示コーナー
コーナー2 ◆ どこからきたの?①(ルーツ)
1中原淳一 1914~83年、香川県生まれ

弥生美术馆蔵

図书の家蔵
1930年代半ば、『少女の友』のイラストを数多く手がけた人気イラストレーターであり、戦后になるとイラストのみならず『ひまわり』『それいゆ』等の雑誌をトータルコーディネイトする编集者としても活跃しました。少女マンガの図像には、竹久梦二など抒情画の影响が色浓いのですが、特に中原淳一からの影响ははかり知れません。1950年代に少女マンガを手がけた作家たちの多くは、彼からの影响を认めます。中でも高桥真琴は、中原淳一に触発され新しい抒情画の世界を目指す过程で一时期少女マンガを描いていましたし、花村えい子は、中原淳一のような絵が描きたかったがために美大に入ったと述べるほどです。

个人蔵

个人蔵
※わかば书房より出版されていた贷本少女マンガ誌『花』の
誌名と作家を踏袭してるが别の雑誌
本コーナーや、コーナー1-8で展示した贷本少女マンガ誌『虹』の表纸には、中原の『ジュニアそれいゆ』や『ひまわり』からの影响が强くみてとれます。これは、编集长の长冈比吕志の方针だったとのこと。ケース内の『虹』の表纸は、ニーズを受けてイラストを描き続け『虹』の人気を牵引した谷悠纪子が描いています。『花』の表纸の高桥真琴は、中原の影响をうかがわせつつ、すでに高桥らしい世界を确立しています。
2松本かつぢ 1904~86年、兵库県生まれ
「女学生の间ではヨーロッパ的な中原型とアメリカ的なかつぢ型とで分かれるほどのブーム时代でした」と、上田トシコが当时を回想するように、松本かつぢは『少女の友』誌上で中原と人気を二分するイラストレーターでした。アメリカ的という言叶には、元気で活発であるというニュアンスが含まれています。のちの少女マンガでは、ヨーロッパ(特にフランス)とアメリカは最も人気のある舞台となりますが、「ヨーロッパ的な中原型」「アメリカ的なかつぢ型」という上田の指摘に、そのルーツの一端をみることが出来ます。

『少女画报』1933年6月号
松本かつぢ资料馆飞别产サイトより

『少女の友』1934年4月号ふろく
个人蔵

国书刊行会 1987年
个人蔵
かつぢはマンガも得意とし、そのマンガは时に「元祖少女マンガ」と呼ばれます。代表作に雑誌を変え戦前から戦后に続いた「くるくるクルミちゃん」(1938-)があります。またかつぢマンガのごく初期作品であるポクちゃんのシリーズ(1929-)は、上田が「すごく线がきれいで、目がひとつで、棒の鼻だけで人间の颜にみえるんですね、それが不思议で魅力的で」と述べるように、彼女がかつぢを尊敬し弟子入りするきっかけとなった作品です。また、1934年に『少女の友』のふろくとして描れた「?(なぞ)のクローバー」は、等身の高い少女が活跃する12ページのお话。ストーリーマンガの先駆的作品のひとつで、手塚治虫の「リボンの骑士」や上田トシコの「フイチンさん」への连続性が垣间见える重要な作品です。
*参照:松本かつぢ资料馆「漫画とキャラクター」コーナー
※绍介した松本かつぢ作品をでご覧いただけます
3バレエ
1946年、东京バレエ団による帝国剧场での「白鸟の湖」全幕公演が22日间にわたって连日満员になりました。これは戦后すぐの日本に、バレエが舞台芸术として受け入れられたことを示す出来事でした。当时最大の娯楽であった映画では、1948年に本格的バレエ映画「赤い靴」(イギリス)が制作され1950年に日本公开。この映画の后、都内にはバレエ教室がたくさん开かれたとのことです。1940年代后半から50年代にかけて、バレエは日本の少女の憧れの存在となったのでしょう。少女誌には1950年顷バレエの记事が増えはじめます。

个人蔵
バレエを題材にしたマンガは1955年頃に登場し、1950年代後半から60年代はじめに大流行します。少女たちのバレエへの憧れを牽引したのが、デビュー作「母恋ワルツ」(1957)からバレエを題材にし、たくさんのバレエマンガを生み出した牧美也子と、「あらしをこえて」(1957-)、「プチ?ラ」(原作:橋田壽賀子 1961-)など、短いマンガ家時代の作品の多くがバレエものである高橋真琴です。牧美也子の「マキの口笛」(1960-)は、『りぼん』で連載が2年半以上続いた60年代バレエマンガの代表作です。高橋真琴が表紙を飾る『バレエ』は全編バレエマンガの貸本少女短編誌。当時バレエものがいかに流行っていたかがわかる例です。

表纸:高桥真琴
个人蔵

个人蔵
4手塚治虫 1928~89年、大阪府生まれ

个人蔵

个人蔵

个人蔵
现代の日本文化史を语る上で欠くことのできないマンガ家?手塚治虫の影响は、少女マンガにおいても絶大です。中でも「リボンの骑士」(1953-)は初期少女マンガの代表作として必ず数えられる作品。他にも「ナスビ女王」(1954-)、「エンゼルの丘」(1960-)など、手塚は连载?読み切りをあわせ多数の少女向け作品を少女月刊誌に発表しています。
水野英子、牧美也子、わたなべまさこなど少女マンガジャンルの形成に大きな役割を果した女性マンガ家たちが皆、手塚治虫の存在がマンガ家を目指す大きなきっかけとなったと述べています。彼女たちに影响を与えたのは、上记少女誌掲载の手塚作品ではなく、いわゆる赤本の描きおろし単行本でした。

データのみ、个人蔵

现代マンガ図书馆蔵

现代マンガ図书馆蔵
『漫画大学』(東光堂 1950)に衝撃を受け「マンガ家になろう!」と決心したという水野英子は、『拳銃天使』(東光堂 1949)について「キスシーンが出ている。これはすごくショッキングだったけれどとても美しいと思ったんですね」(*)と述べています。描きおろし単行本の頃の手塚作品には、本作のようにのちに少女マンガにとって重要なテーマとなっていく恋愛要素のある作品や、『奇跡の森のものがたり』(東光堂 1949)のように、あきらかに女性読者を意識した作品が見られます。
*参照:手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL「拳銃天使」コーナー
「拳銃天使」のキスシーンは
5母もの
1950年代までの少女向けの媒体に大きな影响を与えた作家としては、「花物语」の代表作をもつ少女小説家?吉屋信子が重要です。中原淳一など抒情画の挿絵とともに少女どうしの独特な友情を书きました。また「母もの」も重要です。母の献身などを题材にする物语はそれ以前からありましたが、1948年、映画「山猫令嬢」の大ヒットを皮切りに、叁益爱子が主演の「母もの」は10年间のあいだで33本も撮られ、他社でも制作され大流行しました。

个人蔵
映画での母ものは母の立场から子への献身を描く物语中心でしたが、少女小説やマンガでは、主人公の少女の立场から母を慕う物语がたくさん描かれました。50年代に少女マンガを描きはじめた作家の多くは、その创作活动を「母もの」に类する物语から始めました。
例えば、后年少女誌『りぼん』で、小学生のクラスものをヒットさせる巴里夫は「男としては、少女ものは母ものでなくてはならないとか、吉屋信子でなくてはいけないとか、型から入るしか出来なかったんです。でもそれでは女の先生方の后をついて歩くだけなんです」と、「母もの」を乗りこえるべき类型として语ります。一方常に読者によりそい、かわいらしくも凛とした少女を描き続けた牧美也子は「少女时代、戦争の真っ只中だったんです。后年、母ものであるとか、花だの星だのと言われますけれど、そうではなくて…、必然性があったんですね。あの顷、戦中?戦后、私自身まわりを见てもすべての人がひとつずつストーリーを持っているというような时代だったんです。(略)ひとつ间违えばあれは自分の姿だったと思うような时代を过ごしてきたものですから」と语ります。巴、牧の述懐は、母もの的なお话が存在した意味、その需要の大きさを知ることのできる重要な言叶です。
6オードリー?ヘップバーン
1929~93年、ベルギー生まれ イギリス人 女优

1954年
米沢嘉博记念図书馆蔵

1954年
米沢嘉博记念図书馆蔵
海外はまだ远く、洋画が皆の憧れをになっていた时代。オードリー?ヘップバーンは「ローマの休日」(1953、日本公开54)「丽しのサブリナ」(1954)などを通して日本でも大旋风を巻き起こしました。浓い色の髪に小柄で细めの身体は、他のグラマラスな女优たちより日本人に近く、ジバンシィらの手になるおしゃれな衣装もあいまって、ヘップバーンは日本女性のファッション?リーダー的存在となりました。
マンガ家である父を手伝うことから自身もマンガ家となった今村洋子は、父の描く女性がいつも同じ格好をしてるので、オードリー?ヘップバーンスタイルが若者に流行っていると言うと「だったらおまえ描け」と言われ女性を担当するようになったと述べています。
展示品の贷本マンガ「お嬢さん探侦シリーズ」などが、今村洋子と父つとむの合作から生まれた作品の一例です。表纸のウエストがキュッと缔まってスカートが大きく広がった50年代ファッションの少女がキュート。このシリーズの表纸は当时の贷本の表纸の中でもずばぬけておしゃれです。また、「ローマの休日」は水野英子によってコミカライズされています。公开の10年后、1963年の『りぼん』のふろく用に描かれた作品です。日本でのヘップバーン人気がいかに长く続いていたかがわかります。展示品はこのふろく后に8ページ改稿し『别册りぼん』创刊号に掲载されたバージョンです。