展示コーナー
コーナー4◆タブーについて(获得したもの)
1恋爱①
現在、少女マンガのもっともメジャーなテーマが恋愛であることはまちがいないでしょう。しかし、かつては恋愛をテーマにして自由に描くことはタブー視されていたのです。水野英子は言います。「その頃一番やりたかったのは何かというと、世界の名作、文学や映画の中ではちゃんと扱われている少年と少女、あるいは男性と女性の、要するにロマンスの世界ですよね。これをなぜマンガで扱ってはいけないのかということがまず、疑問だったわけです。多分初めて本格的に、『星のたてごと』で男性と女性のラブロマンスを中心にした長編ストーリーマンガを描いたと思います。その後の流れで、そのあたりから徐々に、ロマンスが解禁されてきたような気がします」。 北欧を舞台にした叙事詩「星のたてごと」(1960-)以前にも恋愛の要素が入った少女マンガはあります。ですがそれを、全編を貫く壮大なテーマとして扱った長い物語は無かったということです。
恋爱に関しては、学园ものを描いていた今村洋子の次の言叶にも惊かされます。「すごい投书が来たんですね。おまえは色情狂かって(笑)。(略)好きな男の子の気を引くために、よくある手だけどわざとハンカチ落として拾わせる、なんて昔からあるじゃないですか。(略)编集长に见せられて、怒られるのかと思ったの。そしたら『いや、こういうのが来なくちゃダメなんだよ、これからは』って」。1950年代后半『少女』誌で読者投稿をもとに描かれていた「クラスおてんば日记」を描いていた时のことだそうです。现在当たり前にあって私たちが亲しんでいる表现のひとつひとつが、先辈たちによって切り开かれてきたのだということがよくわかる例です。
2恋爱②
集英社の元编集者?徳永孝雄は『週刊マーガレット』(1963-)初期の、少女の恋爱感情を描くことを解禁した顷について次のように语ります。「女の子は4、5年生になればね、异性が好きだ嫌いだという感情が芽生えるのは当然だけど、そこら辺のとこへ立ち入るのははばかられたことがあった。そのレベルを少し変えてみようか、ということで、恋爱にストレートに取り组んでみたらどうなんだ、ということを考えまして」。水野英子が外国を舞台に、恋爱要素を含む楽しいロマンティック?コメディを描き、细川智栄子らがそれに続きました。さらに西谷祥子、本村叁四子、忠津阳子、大和和纪ら若手がもう少し身近なラブ?コメディを描きます。

集英社マーガレットコミックス 1968年1月5日
米沢嘉博记念図书馆蔵

集英社マーガレットコミックス 1968年1月5日
米沢嘉博记念図书馆蔵

集英社マーガレットコミックス 1968年11月20日
米沢嘉博记念図书馆蔵

『週刊少女フレンド増刊』「細川知栄子 特集 東京シンデレラ 後編」 1969年2月13日号
米沢嘉博记念図书馆蔵

集英社マーガレットコミックス 1971年5月20日
米沢嘉博记念図书馆蔵

若木書房TEEN COMICS DELUXE 1978年1月10日
米沢嘉博记念図书馆蔵

集英社マーガレットコミックス 1970年11月20日
米沢嘉博记念図书馆蔵

集英社セブンティーン?コミックス 1973年4月10日
米沢嘉博记念図书馆蔵
さらに、ティーンのセックスを视野に入れた恋爱を描く作家が出てきた时のことを振り返り、小学馆の元编集者?山本顺也は次のように述べます。「西谷祥子さんとか、それから里中(満智子)さんと、それから『セブンティーン』で津云むつみさんが出た时……。うちはこれからどう対応していったらいいのかと、困ったですよね」。とはいえ、女性のマンガ読者の年齢层があがるにつれ読者のニーズに沿う作品掲载の媒体が必要となってゆき、その后大人の女性向けのマンガからも、たくさんの秀作ヒット作が登场し続けています。
3上くちびると下まつげ

1966年12月4日(50)号
米沢嘉博记念図书馆蔵

个人蔵
※花村えい子のデビュー作
上くちびるも下まつげも描かれている
花村えい子は语ります。「上くちびるを描いたらダメって言われたことがありました(笑)。下まつげも。パチパチ描いたんですけども消されちゃったんですよ。ホワイト持ってきて『下のまつげ全部消しなさい。こういう颜描いている人いません』って。その顷は下まつげを描いてる方が雑誌ではいらっしゃらなくて、これはマンガじゃないって言われて。人気作家のそういう絵が定着していましたし。単行本、贷本マンガで描いた时からもうそのスタイルだったんだけど、『これはマンガじゃない』という意见と『新しくていいじゃないか』という意见と真っ二つに分かれて。でも幸いなことにその后はずっと描かせていただいていますけど、……当时はちょっとショックでしたね」。1960年代半ばのことです。当时は、牧美也子や松尾美保子など下まつ毛の无い絵柄が少女誌で大人気でした。贷本ではまったくなかった禁止事项だったとのことです。
4悲しい物语へのおてんば少女の登场
1959年、ちばてつやは少女向けの悲しいお话を描くのがだんだん辛くなり、「ユカをよぶ海」连载第2回に、意地悪してきた男の子をひっぱたくような少女を描いてしまいました。编集者には人気が落ちると言われましたが、実际は「そこが面白かった!」と大反响。「そこからふっ切れましたね。ああ、女の子って悲しいものだけが好きじゃないんだ、元気な、活発で思ったこと言いたいことをパッと言うような明るい子もいいんだなっていうことに気がついて。それからぼくはもう少女ものということを意识するのをやめまして、男の子が読んでも女の子が読んでも面白ければいいんだと、そこからすごく楽になりましたね」
その「ユカをよぶ海」の次号ふろく册子には、编集部にたくさんのハガキが届いた様子が描かれています。上田トシコの「フイチンさん」(1957-)や今村洋子の「クラスおてんば日记」(1957-)など、魅力的なおてんば少女が活跃するお话は当时からありました。が、おてんばとシリアスで悲しいお话とはなかなか相容れなかったのでしょう。ユカへの喝采は、プライドと自我のある少女が、一见型にはまった悲しい物语に突然あらわれたことへの惊きと肯定だったのではないでしょうか。
5淡い色彩
水野「わたなべ先生にぜひお聞きしたいことが。あのすごく淡い色彩でお描きになりますでしょ。カラーの場合。 あの当時は赤、青、黄、原色を、フルに使わなければ怒られてしまうので……。先生だから許されていたのかな、みたいなことをずっと感じて来たんですけれど」
わたなべ「一度ね、确か『少女ブック』の时の副编集长に注意されたことがあったの。(略)赤ベタを多く使った方がいいと。うん。使えと言われたんですよ。でも赤ベタを使うと自分の絵が死んでしまうので「絶対いや!」って言って(笑)。だからそのわがままが通ったっていうのは幸せだったかもしれません」
花村「要するに担当さんによったのかも……。でも、うすく色をいれても本になったとき真っ赤とかベタに変わってたり、ありましたよ」
水野「私も色を変えられるというのはよくやられましたよ。たまには渋い色も描きたくて黒髪に緑の叶と小さな赤い実をからませた少女を描いたら、见事にボツになりました。髪の色を青や紫、赤っぽいものなど自由に描き始めたのは牧さんだと思いますが、わたなべ先生の白い幻想的な髪と同时に日本人の黒髪から解放されたのは少女マンガの表现を飞跃的に広げたと思います」
6初潮を描くこと
少女雑誌においては1960年代前半まで初潮の话题はタブー视され、生理用品の広告さえも保护者から非难の対象となっていました。女の子の初潮をマンガで最初に扱ったのは、1963年、望月あきらの「わたしは……东京っ子!」の连载中だと言われています。本作は、読者投稿を元にしたエピソードが主人公ユミの体験として缀られる作品です。当时は初潮のことを「アンネ」と呼んでいます。
牧美也子も、当时初潮を扱うことについて言及しています。「少女期から大人に移行する时の大事な精神的なもの、身体的なもの、そういうものは描きにくかったです」「初潮の话もダメと言われました。でも、その作品に関しては絶対それをはずせないので、バラの花が渚で散っているような表现に変えて、わかる人にはわかると。言叶としては书きませんでしたけど(略)。そうしたある意味デリケートな问题に対するダメ出しはありました」。必要であれば知恵と工夫でタブーを乗りこえる、表现者としての姿势が伝わってきます。