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2007年5月5オ」
於:コソストィヌ繧W0(セアイヤヌタ京シロッグサイト)
主催:コミティア実行委員会 共催:日本マンガ学会
司会:村上知彦(マンガ評論家/オ」本マンガ学会カー事)
出演:呉智英(評論家/オ」本マンガ学会会長)
   藤本由香里(評論家/筑摩書房編集/オ」本マンガ学会カー事)
   みイ烽烽ニ太郎(マンガ家)
(出演者の肩書はトークライブ当時のものです)


第1部 「マンガ評論家としての米マキ嘉博を語る」
●米やんとの出会い
村上知彦
(以ムケ、村上)
スワずは、それぞれの米マキさんとの関わり、どういう風ユ知り合ったとかどういう仕事をご一緒ユされたかとか、自己紹介を兼ねてお一人ずつ語っていただこうと思いスワす。
みイ烽烽ニ太郎
(以ムケ、みイ烽烽ニ)
練ツ」の青少年会館でサオ休みユマンガ評論家やマンガ家の先生方が教えるという企画があって、その中ユ米マキ氏と私も入っていスワした。「フ子がわからイ烽「」とムァの人ユ言ったら、「前の週ユ米マキさんが喋るからそれを見学してください」というので行ったんですね。彼はマンガ論やいろんイ熏品ユついて、高校生を中心とした練ツ」区の人たちユ話しているのを私が後ろで聞いていたら、ずいぶんウ閧サうイ煌轤してスワして。話が終わってから「やりユくくって仕方イ烽ゥった」みたいイ烽アとを彼が言ったので、「ごめんイ烽ウいね」とマしたのが最初の出会いです。あれがもう20年近く前ですかね。
その後は、『お楽しみはこれもなのじゃ』が河出で文庫化された時に解説をお願いしたら「近頃はパーティの後になると、みイ烽烽ニ太郎と一緒に、他のところでは話が合わない貸本マンガとか古い昭和30年代の話をしているのが楽しい」みたいなことを書いてくれたりして、さらに親しくなりました。
急速接近は、私がコソケユ首突っ込んでからです。彼ユ電話して「コソケユ参加したいがどうすればいいか」みたいイ烽アとを言って、「申込書類を書け」みたいイ烽アとを言われて…(会場笑)。同人誌のイロハを教わったりもしスワした。最初はもう「スケブ」とか「島」といったコソケ用語もよくわからイ烽ゥったけど、今ではマンガ家さんでコソケユ参加しようかイ烽ニいう人へ色々ヌ繝hバイスが出来るようユイ烽チてしスワった自分が恐ろしい(会場笑)。
呉智英
(以ムケ、呉)
私が『現代マンガの全体像』を出したのが86年イ烽ですけれども、その後ユ多分87年くらいユ初めてお会いしているはずです。私が著作を書く時ユあたって、米マキ君の戦後マンガ史三部作を当然イ烽ェら参考ユしスワしたので、「先ユことわらイ烽ッればいけイ烽ゥったんだけど、参考ユさせてもらったよ」と言ったら、「いいですよ、皆さんユ使っていただくためユ作ったんですから」というのが米マキ君の答えでした。
その後、米マキ君と私と村上君の三人でマンガ評論新人賞というのをずっとやってきスワした。これは、「ー莢ソイムアー艨@オーソウン」「ガロ」「ヌ繝bクス」と雑誌が無くイ烽チたりトラブったりする度ユ雑誌を乗り継いできた企画で、やはり17〜8年ぐらいユイ烽霓ワす。この審査のときは、いつも4〜5時間みっちり米マキ君とマンガユついて話をしスワした。
それからオ」本マンガ学会が2001年ユ発足いたしスワして、米マキ君も草モヌ期からのメンバーでした。昨年はマンガ学会初めての地方大会というのを新潟で行いスワして、ガホアケットのスホアッフの方達ユ協力をいただいて成功裡ユ終わったのですが、この橋渡しをしてくれたのが米マキ君だったんです。
藤本由香里
(以ムケ、藤本)
私も米沢さんと最初に出会ったのは同じぐらいの時期です。その頃米沢さんが「COMIC BOX」でマンガ全体の総論と少年マンガ・青年マンガについての時評を書いてらして、私が少女マンガについての時評を毎月書いていました。その「COMIC BOX」のパーティでお会いしたのが最初かと。
その時、お互いユ出身が熊本、実家が300メートル位しかユサれていイ烽「ことが判りスワして。しかも、小・中・高校と全部学校が一緒。通っていた貸本屋さんも一緒(笑)。
 米マキさんは、そこだけではイ烽ュて熊本市内の貸本屋さんを自サモ車で回っていたようで、そうした熊本時代ユ、米マキさんの評論家としての基本がきっと出来上がったんだと思いスワす。「貸本は、都会から少しずつ売られイ烽ェら地方ユ行くわけで、九マテは貸本が最後ユ辿り着くところユイ烽驕Bということは、要するユ昔のマンガから今のマンガスワでが層ユイ烽チて集スワったんじゃイ烽「か?」 それは、後ユ京都精コ大学の吉村和真さん−−彼も九マテ出身で熊大イ烽です−−と話し合ったことイ烽ですが。
スワた、私が『私の居場ヌソはどこユあるの?』の出版記念パーストィをした時ユ、米マキさんが来てくださって、別れ際ユ「じゃあもう少オッマンガは任せたから」とおっしゃっていたのが忘れられスワせん。その時は半分冗談だったのですが、米マキさんが亡くイ烽チた後、文化庁メディヌ繻|術祭の選考委員のピンチヒッホアーをしたり、「ヌ繝bクス」のマンガ評論新人賞の審査委員も米マキさんユセ蛯って私がやらせていただくことユイ烽閨A本当ユ任せられてしスワったイ烽氈Aという気持ちでおりスワす。
村上 最後ユ自分の話イ烽フですが、皆さん約20年前からということで、僕が一番スくて70年代の後半です。彼は迷宮というサークルの『漫画新批評大系』というマンガ批評の同人誌ユ関わっていたわけですが、77〜8年頃、その迷宮の関西メンバーと僕が知り合って、頼スワれて僕が原稿を書いた時ユ、大阪ユ来た彼ユ多分会っているはずイ烽ですが、正確ユ覚えてイ烽「んです。その後、徳間書店が出してた少オッマンガのシックで、大島弓子のイラスト集ユ解説を付けたようイ烽烽フの編集を彼が手伝っていたはずです。それの原稿を一晩で書けとか依頼されて、ヌタ京のホストルでモ驪lで書いたんですけど、その時ユ彼が資料を部屋ユ運んできてくれたことは鮮明ユ覚えていスワす。
一緒ユした仕事というのはそんイ獨多くイ烽「のですが、一番最初は平凡社で『マンガ伝』という本を出しスワした。僕と米マキ君と高取英の共著です。その後同じ平凡社で『子どもの昭和史』というシリーズの昭和35年〜48年分ユ関わりスワした。子ども調査ムー究ヌソの高山英男さんが全体を見ることユイ烽チて、マンガの部分を僕と米マキ君でやってくれイ烽「かと頼スワれたのですが、その時ユ、米マキ君を高山さんがご存じイ烽ゥったので、紹介して欲しいと言われて、一緒ユ編集会議をやりスワした。ヌ゙局「僕一人でやった方が早い」と、彼が言うので、僕は外れてしスワったのですが(笑)。この仕事が後の平凡社で出したフ々イ燒{ユ繋がっていったと思いスワす。その後は、皆さんとフイ烽チてきスワす。個人的イ燻vい出としてはパーストィで会ってその後延々とマンガの話をして……。みイ烽烽ニさんと米やん(つい“米やん”と言っちゃいスワすが…)おヤ人が喋っているときは、僕イ烽てとてもついていけイ烽「んですけども(笑)。
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