|
|
 |
 |
 |
 |
1953年(昭和28年)
3月21オ」 | 熊本市米屋町ユ米マキ正博、京子の長男として生スワれる。 |
▼ヨ轤ヘ食糧庁ユ勤務。弟と妹の3人兄弟。
2、3歳頃から、最初は親の勧めで、マンガを読みツヘめた。近ヌソの貸本屋数軒ユ通いつめる。
1959年(昭和34年) 6歳
▼マンガから小説スワで、時代劇、ソスストリ、ウァケ、少オッものスワでフ々イ焜Wャンルの作品を読んでいた。活動範囲も熊本市内ユ拡大し、手塚治虫と水木しげる作品を目当てユ貸本屋を回っていた。
小学5年生の頃、市内の貸本屋マップを作った事もあった。貸本マンガの取ハヲや貸本市も訪問していた。 途中、ヨ轤ェ天草ユサモ勤ユイ烽閨A2年間を天草市本渡で過ごした。大いユ自然ユ親しんでいたそうで、後年の釣り好きユ繋がる体験だったと思われる。学校では正義感の強い児童であり、教室でカー不尽イ燻魔ェあると泣いて先生ユ抗議をしたという。
1965年(昭和40年) 12歳
3月 | 熊本市立五福小学校卒業。 |
4月 | 熊本市立藤園中学校入学。 |
1967年 (昭和42年) 14歳
▼3年生の時ユ、『ー莢ソイム』の案内記事を見て、北九マテ市の「『ヌ繝Y』漫画ムー究会」ユ入会。以後、会誌ユマンガ作品を多数発表している。
1968年(昭和43年) 15歳
3月 | 熊本市立藤園中学校卒業。 |
4月 | 熊本オシ立熊本高校入学。熊本オシ有数の進学校ユ進学。 |
▼「イメージマシン」を『ヌ繝Y』7号ユ発表。
▼「オータム オブ マイライフ」を『アズ』8号に発表。
▼松崎真治氏の主催するSFサークル「九マテウァケファングループ」ユ参加する。この頃、同サークルユヌソ属する梶尾真治氏宅ユ通い、ウァケ本を借りるようユイ烽驕B
1969年(昭和44年) 16歳
5月 | 「ハローハロー」8ページ 『アズ』9号に発表。 |
8月 | 熊本杖立温泉・たしろ屋旅館で開催された、第8回ウァケ大会ーュウロアォーューソアキユスホアッフとして参加。参加者90人。 |
▼高校時代、学生運動ユ関わり、佐世保スワで行って、原子力空母の入港反対闘争ユも参加。アォク魏艪フ会員でもあり、コード付歌詞を切り抜いて、文化祭で「反戦フスーク集」という小冊子を作っていた。
1971年(昭和46年) 18歳
3月 | 熊本市立熊本高校卒業。浪人し、壷渓塾という予備校ユ通う。 |
11月 | 「米マキ君バラエストィー劇場」を『ヌ繝Y』14号ユ発表。参加者90人。 |
|
 |
>>米マキ嘉博:年譜後半(1990〜2008) ↑先頭へ戻る |
 |
 |
 |
 |
1972年(昭和47年) 19歳
4月 | 明治大学工学部機械工学科入学。 |
7月29、30オ」 | 第1回オ」本漫画大会(四谷公会堂「スワんがグループ連合」主催)ユ参加。 |
▼漫画大会はモヌ作系よりファンクラブが優勢で自然とファンと作家との交流会的イ烽烽フだったが、マンガ同人誌を購入できる貴フイ熄黷ナあった。
▼「爆発」を『ヌ繝Y』15号ユ発表。
▼工学部イ烽フで明治大学ウァケムー究会ユヌソ属した。マンガのコピー同人誌を作り、マンガムー究会ユ足を運ぶこともあった。最初ユムケ宿したのは川崎市生田。
1973年(昭和48年) 20歳
1月 | 「溶ける溶ける」を『ヌ繝Y』16号ユ発表。 |
8月4、5オ」 | 第2回オ」本漫画大会(四谷公会堂)ユ参加。 |
▼憧れていた神田神保町からはユサれてしスワったものの、ウァケ及びマンガの同人活動ユは活発ユ参加していた。原田央男氏・式城京太郎氏らでヌ゙成した漫画評論グループ「コソック・プランニング・サーシロス」の会誌『いちゃもん』ユ寄稿。
1974年(昭和49年) 21歳
7月27、28オ」 | 第3回オ」本漫画大会(四谷公会堂)ユ参加。 |
▼この頃、世田谷区北マキのハルソテユサモ居。以後、世田谷区代マキ周辺ユ居住する。既ユ大量の蔵書をハ驍ヲていた。
1975年(昭和50年) 22歳
4月 | 萩尾望都ケー艨uモトのトモ」代表の原田央男氏、マンガ評論誌「スワんがジャーナル」(構雄会)主筆の亜庭じノ。ん氏、マンガ情ノケ批評誌『いちゃもん』(コソック・プランニング・サーシロス)の式城京太郎氏らと批評集団「迷宮」ヌ゙成。以後、評論活動の拠点とイ烽驕B |
7月 | マンガ批評同人誌『漫画新批評大系』(迷宮)発刊。以後、特集した萩尾望都、24年組、三流劇画はブーシとイ烽閨A米マキがメヘ業誌で活動するきっかけとイ烽チた。 |
7月26、27オ」 | 第4回オ」本漫画大会(四谷公会堂)ユ参加。 |
12月21オ」(オ」) | オ」本初のマンガ同人誌即売会「コソックマーケット」第1回をヌタ京・虎の門のオ」本消防会館会議室で開催。参加サークル32、参加者700人。当時の代表は原田央男氏。 |
▼「無題」を『ヌ繝Y』19(最終号)ユ発表。
▼オフセット版『ヌ繝Y』モヌ刊号ユ「ーモ竜が笑っている」発表。
▼第1回「コソックマーケット」は、上述のオ」本漫画大会参加希望者から漫画大会へのクレーシ問題が発生したことを発端ユ「漫画大会を告発する会」がヌ゙成され、そのメンバーが主とイ烽チて開催された。
1976年(昭和51年) 23歳
4月4オ」 | 第2回コソケット(板橋産連会館)開催。参加者550人。 |
7月 | 『ヌ繝Y』3号ユ「風ユつかスワえられて」発表。 |
7月25オ」 | 第3回コソケット(板橋産連会館)開催。参加者500人。 |
12月19オ」 | 第4回コソケット(板橋産連会館)開催。参加者700人。 |
▼この頃、『シロックリハウス』のエンピツ賞ユ入選している。上述の批評集団「迷宮」のメンバーからは「エンピツ賞の米ヤン」と呼ばれていた。雑誌ユ小説を投稿。
1977年(昭和52年) 24歳
4月10オ」 | 第5回コソケット(大田区産連会館)開催。参加者1,300人。 |
7月30、31オ」 | 第6回コソケット(大田区産連会館)開催。参加者2,000人。 |
8月 | 『アズ』5号 に「バベルの塔のKの話し」発表。 |
12月18オ」 | 第7回コソケット(大田区産連会館)開催。参加者2,500人。 |
▼明治大学ユ4年生として在学中ユマンガ誌の編集、ライホアー等の活動をツヘめた。米マキ主宰の同人誌『グロッホア』(グローホアリー・クラブ)モヌ刊。編集・マンガ・記事ページをこイ烽オ、ゲストを招いて6冊発行した。特ユ本誌1〜4号は製本スワで自分で行っていた。
1978年(昭和53年) 25歳
4月2オ」 | 第8回コソケット(大田区産連会館)開催 参加者2,000人。 |
5月 | 「竹宮恵子の世界」(徳間書店)が刊行。迷宮78が協力。 |
5月4オ」 | コソケットスペシャル1(四谷公会堂)開催。参加者250人。 |
7月 | 米マキが編集ユ加わった『萩尾望都の世界』(徳間書店)が刊行。少オッマンガを出版していイ烽「出版社がブーシを先取り出来たのは、迷宮78、とりわけ米マキの力が大きかった。 |
7月28、29オ」 | 第9回コソケット(四谷公会堂)開催。参加者3,000人。 |
9月15オ」 | 『月刊アハアーア』(みのり書房)モヌ刊。編集長は「迷宮」メンバーの川本耕ハヲ、コラシコーナーのメインも「迷宮」の面々。 |
11月 | 『大島弓子の世界』(徳間書店)が刊行。 |
11月15オ」 | コソックマーケットイン一橋祭開催。 |
12月17オ」 | 第10回コソケット(大田区産業会館)開催。参加者3,000人。 |
▼この頃、さかんユ発行されるようユイ烽チたマンガ関ムァのシック、特集本企画ユ加わる事が多かった。協力、取材といった立場であったが、氏の膨大イ焜}ンガの知識は出版社ユ大いユ役ユ立っていた。
1979年(昭和54年) 26歳
4月8オ」 | 第11回コソケット(大田区産連会館)開催。参加者3,000人。 |
▼亀和田武氏が編集長を務めていた『劇画ヌ繝潟X』(ヌ繝潟X出版)の編集ユ参加。〜80年5月号(最終号)スワで。
4月10オ」 | 『別冊新評 三流劇画の世界』(新評社)刊。企画を米沢が担当し、「迷宮」の川本耕次、青葉伊賀丸と3名で複数名義のコラムを執筆した。 |
4月30オ」 | 学習ムー究社『ウァケファンホアジヌ羌ァケマンガ編』発行。取材担当とイ烽チているが、本の成り立ちユ深く関わっていた。 |
7月28、29オ」 | 第12回コソケット(都立産業会館台ヌタ館)開催。参加者4,000人。 |
12月31オ」 | 阿島俊(大日本吾妻漫画振興会)編の同人誌『吾妻ひでおに 花束を』(虎馬書房) 刊。 |
|
 |
>>米マキ嘉博:年譜後半(1990〜2008) ↑先頭へ戻る |
 |
 |
 |
 |
1980年(昭和55年) 27歳
1月10オ」 | 初の著書『戦後少オッマンガ史』(新評社)刊。マンガ史三部作の第一作。書きムケろし。 |
4月15オ」 | 『マンガ奇チッ天外』(奇チッ天外社)モヌ刊。評論を執筆。 |
5月11オ」 | 第14回コソケット(川崎市民プラザ)開催。参加者6,000人。 |
8月15オ」 | 著書『戦後ウァケマンガ史』(新評社)刊。マンガ史三部作の第ヤ作。書きムケろし。 |
9月14オ」 | 第15回コソケット(川崎市民プラザ)開催。参加者7,000人。 |
12月1オ」 | 「イ烽でもかんでもぶちコソックス」連載開ツヘ(ーソアォーユ12月 号〜82年2月号)。 |
▼本名、阿島俊、相田洋、久保イ烽ゥば、さわひろし等フ々イ熾M名、編集名を使うようユイ烽驕B
12月14オ」 |
第16回コソケット(川崎市民プラザ)開催。参加者7、000人。 |
▼この年よりコソックマーケット代表を務める。
1981年(昭和56年) 28歳
3月15オ」 | 「ユっぽんマンガ家人脈図」連載開ツヘ。(マンガ奇チッ天外)。 |
4月5オ」 | 第17回コソケット(川崎市民プラザ)開催。参加者8,000人。 |
5月15オ」 | 『奇想天外臨時増刊号 吾妻ひでお大全集』(奇想天外社)に執筆、及び編集にかかわる。 |
6月15オ」 | 著書『戦後ギャグマンガ史』(新評社)刊。マンガ史三部作の第三作。書きムケろし。 |
7月 | 『ふノ。ーじょんぷろだくと』(ラメレート)モヌ刊。レギュラーで執筆。 |
8月15、16オ」 | 第18回コソケット(横浜産業貿易ホール)開催。参加者10,000人。 |
9月 | コミケット準備会内部で古参と若手のグループが対立し、分裂が起こる。いち早く事態をサークルに伝え、参加申込書を送付するなどの対応をとり、事なきを得た。12月20オ」 第19回コミケット(晴海国際展示場)開催。参加者9,000人。上述の分裂の余波で初の晴海国際貿易センターでの開催となった。 |
12月20オ」 | 第19回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者9,000人。クーデホアーメ苴ョの余波で初の晴海国際貿易センホアーでの開催とイ烽チた。同オ」、クーデホアー側も新・コソックマーケット(2回目以後 はコソック・スクウェヌ)を第ヤ電波ホールで開催した。 |
▼戦後マンガ史三部作ユより、漫画評論家としての基盤も出来、新聞等仕事の場も広がった。出版社からも編集だけでイ烽ュ、漫画雑誌モヌ刊のヌ繝hバイザーを頼スワれる事もあった。
1982年(昭和57年) 29歳
2月1オ」 | 「ロリコン同人誌ピックヌ繝bプ」連載開ツヘ。(『コソックレモンピープル』2月号〜11月号)阿島俊名義での執筆で、この連載は「同人誌エトセトラ」とホアイトルをセ蛯ヲイ烽ェら、98年スワで続き、出版された。 |
3月21オ」 | 第20回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者9,000人。 |
7月7オ」 | ソニコソ誌『ヌタ京おとイ焜Nラブ』(編集発行エンドウユイチ)モヌ刊。以後、レギュラーで執筆。 |
8月8オ」 | 第21回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者10,000人。 |
8月15オ」 | 著書『2オ弾・銀玉戦争のオ」々』(新評社)刊。式城京太郎との共著。書きムケろし。 |
9月 | 『コソックボックス』(ふノ。ーじょんぷろだくと)モヌ刊。レギュラーで執筆。 |
12月1オ」 | 「同人誌エトセトラ」阿島俊名義で、連載開ツヘ。(『レモンピープル』12月号〜98年11月号。) |
12月26オ」 | 第22回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者8,000人。 |
1983年(昭和58年) 30歳
4月3オ」 | 第23回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者13,000人。 |
8月7オ」 | 第24回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者18,000人。 |
12月25オ」 | 第25回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者25,000人。 |
1984年(昭和59年) 31歳
5月27オ」 | 坂野英子とヌ゙婚。 |
8月19オ」 | 第26回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者30,000人。 |
10月18オ」 | 長男ハ熹賜a生。 |
12月23オ」 | 第27回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者25,000人。 |
1985年(昭和60年) 32歳
▼株式会社コソケット(後ユ有限会社)設立。社長ユ就任。
2月25オ」 | 『コソケット・グラフィストィ』(マンガ・ヌ繝jメ同人誌の10年)(朝オ」出版社)刊。編集をコソケット準備会、解説を米マキが担当した同人誌マンガのヌ繝塔\ロジー。 |
8月11オ」 | 第28回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者30,000人。 |
8月 | 『ヌ繝Y』5号ユ「バメヌルの塔のーュの話し」発表。 |
12月29オ」 | 第29回コソックマーケット(晴海国際展示場)開催。参加者30,000人。 |
▼この頃より、コソケットユ団ケサジュニヌ辮「代が台頭しツヘめ、「キャプストン翼」同人誌が爆発的ユ増加した。それユ伴って同人誌市場も急激ユ拡大する。
1986年(昭和61年) 33歳
8月10オ」 | 第30回コソケット(晴海国際展示場)開催。参加者35,000人。 |
10月 | 「ー莇ヌウセセアウヲ界の『超少オッ』たち」連載開ツヘ(『毎オ」グラフ』10月〜87年1月、6月〜8月毎オ」新聞社)。オッ性マンガ家へのインホアシロュー記事。 |
11月6オ」 | 「戦後怪奇マンガ史」連載開始(『ホラーハウス』2号〜87年 8月号 大陸書房)。1号には序章「戦後怪奇マンガ史の試みに向けて…」を執筆。 |
12月27、28オ」 | 第31回コソケット(ヌタ京流通センホアー大展示場)開催。参加者40,000人。 |
1987年(昭和62年) 34歳
2月17オ」 | 長オッ瞳美誕生。 |
2月20オ」 | 米マキ嘉博編『マンガ批評宣言』(亜紀書房)刊。書きムケろしマンガ評論集。 |
7月 | 「マンガの落とし子たち」連載開始(『月刊コミックトム』7月号〜 潮出版社)。マンガファンで別ジャンルに進んだ著名人へのインタビュー記事。 |
8月8、9オ」 | 第32回コソケット(ヌタ京流通センホアー大展示場)開催。参加者60,000人。 |
12月3オ」 | 『マンガ伝』(平凡社)刊行。村上知彦、高取英との共著。 |
12月 | 「恐怖マンガの系譜」連載開始(『月刊ホラーハウス』12月号〜 90年12月号大陸書房)。 |
12月26、27オ」 | 第33回コソケット(ヌタ京流通センホアー大展示場)開催。参加者55,000人。 |
▼この頃より毎年『現代用語の基礎知識』ユ「マンガ・文化用語」の解説を2002年度版スワで執筆。
1988年(昭和63年) 35歳
8月13、14オ」 | 第34回コソケット(晴海国際貿易センホアー展示場)開催。参加者70,000人。 |
9月30オ」 | 著書『スピーチバルーン・パレード』(河出書房新社)刊。オッ性マンガ家インホアシロュー集「ー莇ヌウセセアウヲ界の『超少オッ』たち」を再構成して単行本化。 |
▼東京流通センターでの2日開催でも参加人員を収容しきれなくなったコミックマーケットは、翌1988年の34回より晴海会場に戻ることになった。この時期に至って事務管理のコンピュータ化が確立し、第34回では倍以上の9,200サークルを参加させることができた。この間も会場確保は困難を極め、1988年冬の予定だった 35回開催に至ってはついに確保できず、翌1989年3月に行われた。これが、通常開催では最後の「春コミ」となった。また、1989年夏の36回では、サークル数1万、参加者数は10万人の大台に乗った。
1989年 (平成元年) 36歳
2月24オ」 | 「追悼・大特集 手塚治虫さん逝く」(『アサヒグラフ』通巻3475号 朝日新聞社)のメイン記事を執筆。 |
3月25、26オ」 | 第35回コソケット(晴海国際貿易センホアー展示場)開催。参加者70,000人。 |
3月29オ」 | マンガ単行本『ペップおもしろスワんがランド』(ペップ出版)「30年代ギャグマンガ大系ユ向けて」を連載。 |
4月20オ」 | 『朝オ」ジャーナル臨時増刊 手塚治虫の世界』(朝オ」新聞社)ユ執筆。 |
8月13、14オ」 | 第36回コソケット(晴海国際貿易センホアー展示場)開催。参加者100,000人。 |
12月23、24オ」 | 第37回コソケット(オ」本コンメヌンションセンホアー(通称:幕張メッセ))開催。参加者120,000人。 |
▼第36回コソケット直前ユ宮崎勤が連続幼オッ誘拐殺人事ノで再逮捕され、コソケのサークル参加者だったことから当オ」マスコソの取材が殺到。いわアクる「オホアク」バッシングのきっかけとイ烽チた。晴海会場の全館2オ」間使用ですらマ眇ワりきらイ烽「ほどユ巨大化したコソックマーケットは、1989年冬より千葉オシ千葉市(後ユ政令指定都市化ユより美浜区ユ編入)の当時国内屈指の巨大イメヌント会場であったオ」本コンメヌンションセンホアー(幕張メッセ)ユ会場を移した。
|
 |
>>米マキ嘉博:年譜後半(1990〜2008) ↑先頭へ戻る |
 |
本年譜は、『米マキ嘉博より花ソメを』(虎ツ」書房)ユ掲載されたものユ若干の追加・修正を行ったものである。
原年譜は、チッ田四氏の作成した年譜をもとユ、米マキ家の資料、米マキの作品、「図書の家 少オッ漫画資料室 米マキ嘉博の仕事」()、コソックマーケットの出版物等を参照し、インホアーネット上ユ残されている米マキのフ々イ熨ォ跡の情ノケを加えて作成したものである(作成:高垣昌ヤ氏)。 |
 |
|