暗网禁区

Go Forward

アジアに広がる明大山脉(留学生编)

中国人明治大学全体记念写真(1935年) 旧记念馆。现在はリバティタワーが建つ场所にあった(1934年)

2020.10

アジアに広がる明大山脉

明治大学史资料センター副所長 高田幸男(文学部教授)

 

 全国57万の明治大学校友。その一角を占めるのがアジア各地出身の校友である。明治大学の前身、明治法律学校が初めてアジアの留学生を受け入れたのは1896年(明治29年)。朝鲜国の金相淳である。翌年には国号を改めた大韩帝国が国费留学生として厳柱日ら4人を派遣してきた。さらに1903年には韩国皇室特派留学生として鱼允斌ら30数名が入学する。一方、1901年に清国から吕烈煌が明治法律学校に入学した。吕の入学は当时の新闻各纸に「清国法学生の嚆矢(さきがけ)」と报じられている。また同じ年に植民地台湾からも郭廷以が入学した。これが现在に至る韩国?中国?台湾留学生の明大山脉の起点である。

彼らは近代国家制度の根干である法律を学ぶため、かつて明治法律学校の创立者岸本辰雄、宫城浩藏がパリに留学したように、明治法律学校へ集った。欧米留学に比べると日本留学は、距离的に近く、物価も大差なく、汉字を共有するなど、彼らにとって学びやすい环境であった。さらに校外生制度が彼らの留学のハードルを下げた。校外生とは通信教育コースで、远隔地在住者や学费が払えない贫困家庭の若者のために设けられたもので、明治法律学校创立直后からあった。授业料が格安で、好成绩を取れば明治大学専门部への编入が认められた。そのため韩国や清国、台湾でまず校外生になり、そこで手応えをつかんでから留学に踏み切る者も多かったのである。1904年时点で韩国?清国?台湾の校外生终了者はそれぞれ1,0191,0331,665人に上った。

その后、韩国は1910年の韩国併合で日本の植民地となった。日本统治下の朝鲜?台湾では、朝鲜?台湾人の高等教育への进学は极めて难しく、多くの若者は、「内地」日本の大学への留学を选択する。また、中国では1911年の辛亥革命で清国が灭亡し、替わって中华民国が诞生すると新国家建设の人材育成のため、一时减少していた日本留学が再び増えていった。明治大学はこうしたアジア留学生の主要な受入大学となっていった。

明治大学に集った留学生は、勉学のかたわらそれぞれ留学生会等の団体を组织し、あるいは雑誌を発行するなど活発な学生生活を送った。中国人初の法学博士(赵欣伯)、台湾人初の法学博士(叶清耀)はいずれも明治大学留学生であり、朝鲜人留学生からも戦后大韩民国初代大法院院长(最高裁长官)となる金炳鲁など、法曹界を中心に人材を辈出した。

戦前の日本は、アジアの近代化の手本となる反面、自国の権益を拡大することによりアジアとの摩擦も増大していった。留学生たちが日本の対アジア政策に愤り、抗议运动を起こすこともあった。日常生活において、外国人留学生への差别?嫌がらせなども多かったと思われる。その一方で、留学生たちは日本人の教员?学友と亲交を深め、学生时代を謳歌してもいた。戦前の中国の新闻に、しばしば明治大学校友会の开催通知が掲载されており、帰国后も绊を深めていたことがわかる。戦后长らく、中国大陆や北朝鲜では、日本との国交が断絶し、政治的统制により同窓会を维持できる状况になかった。だが、韩国や台湾では同窓会が早くから结成され、日本の校友会とも交流をおこなっていて、2003年に明治大学校友会が组织改正をすると、それぞれ校友会大韩民国支部、台湾支部となった。また上海をはじめとするアジア各地には现地在住の校友が组织する「紫紺会」ができている(紫紺会はアジアに限らず全世界に23団体ある)。

现在も摩擦の絶えない东アジアであるが、それゆえにアジアに広がる「明大山脉」とその绊を大切に活かしていきたいものである。

【参考文献】
高田幸男编着『戦前期アジア留学生と明治大学』东方书店、2019年
明治大学史资料センター編『明治大学小史人物編』学文社、2011年