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和泉キャンパス前史 —和泉キャンパスは火気厳禁—(キャンパス編)

开设当初の和泉キャンパス(1934年) 和泉新田火薬庫跡敷地実測図(明治大学史资料センター所蔵)。敷地内に土塁が築かれていることがわかる 明大マート脇に残る火薬库时代の土塁跡(2020年撮影) 「明大桥」栏干と説明柱(2020年撮影)

 

2021.1

 

和泉キャンパス前史
—和泉キャンパスは火気厳禁—

明治大学史资料センター運営委員 
野尻 泰弘(文学部准教授)
 

【和泉キャンパスの诞生】
 明治14年(1881)の创立から约50年后、明治大学には约7千数百名の学生が在籍していた。将来的にはさらなる学生数の増加が见込まれ、骏河台のキャンパスに加えて、新たな校地が模索され始めていた。新校地を求めた理由は他にもあり、骏河台近辺には娯楽施设が多いこと、电车?自动车の騒音が絶え间ないことなど、教育环境の悪化もあったようである。いずれにせよ、このような事情を抱えた明治大学は、昭和5年(1930)に「予科」(现在の大学教养课程に相当)を和泉地区に移転すると决定し、昭和8年には同地区において新校舎建设に着手した。そして、昭和9年4月から授业が开始された。こうして明治大学和泉キャンパスは诞生したのである。なお、和泉キャンパスは授业开始以前からグラウンドとして利用されており、野球场や陆上トラックが整备されていた。
 ところで、皆さんは和泉キャンパスがあるこの土地に、意外な歴史があることを御存じだろうか。ここからは和泉キャンパス前史を探ってみよう。
【江戸时代は和泉村】
 
和泉キャンパスの住所は、东京都杉并区永福1丁目である。これを江戸时代の呼びかたにすると「武蔵国多摩郡和泉村」となる。和泉村の北侧には神田上水が、南侧には玉川上水が流れており、和泉村は畑地と神田上水沿いの田地を有する江戸近郊の村だった。ただし、この村には特徴があった。和泉村の南西には、林を开垦した和泉新田と呼ばれる场所があった。宝暦年间(1751~1764年)、そこに江戸幕府の焔硝蔵が设けられたのである。焔硝はいわゆる火薬のことであり、江戸幕府の焔硝蔵といえば、幕府の火薬库ということになる。最初、幕府の焔硝蔵は浅草に设けられ、その后豊岛郡千駄ヶ谷村(现在の渋谷区千駄ヶ谷?代々木付近)に移転した。このほか、多摩郡上石原(かみいしわら)宿(现在の调布市上石原付近)にも焔硝蔵が设けられ、それが18世纪半ばに和泉新田に移転したのである。移転理由ははっきりしないが、和泉村には江戸幕府の军事的な重要施设が设置されていたのである。
【火薬库から大学へ】
 明治维新后、焔硝蔵は新政府に接収され、陆军火薬库となった。时代が変わっても同じ用途で使われたのである。これにより大正2年(1913)に京王电気轨道(现在の京王线)の火薬库前駅が设置された。火薬库前駅は4年后に松原駅と改名した。大正12年の関东大震灾后、陆军火薬库はその役目を终え、明治大学と筑地本愿寺が火薬库跡地を购入する。こうして明治大学和泉キャンパスと筑地本愿寺和田堀庙所が成立していく。
【往时の名残】
 陆军火薬库时代の図面をみると、敷地内には延焼を防ぐため、いくつもの土塁が筑かれていたことがわかる。それらは现在ほとんどなくなっているが、キャンパス内の明大マートの右隣に土塁が残っている。何本かの木が立っている盛り土といった様子だが、実はそれがかつての土塁のひとつなのである。
 和泉村の南、そして和泉キャンパス开设后も玉川上水は流れていた。かつての明大生たちは正门前の玉川上水にかかる桥を渡って登校していたのである。だが、玉川上水も昭和41年顷に暗渠となった。现在は正门右侧に「明大桥」という説明柱と桥の栏干が残り、かつての面影を语っている。
 最后に余谈をひとつ。和泉キャンパスは主に文系1?2年生が学ぶキャンパスであり、また近年の受动喫烟防止への配虑から喫烟スペースは极わずかしか设置されていない。けれども、焔硝蔵?火薬库だった过去を振り返れば、そもそもここは火気厳禁の场所なのである。ある意味、本来の姿に戻ったともいえる。爱烟家の皆さんには気の毒だが、「歴史的経纬」を踏まえれば、やはり仕方あるまい。

 

 
【参考文献】
明治大学リバティアカデミー编『リバティアカデミーブックレット12 歩いて学ぶキャンパス今昔物语』(明治大学リバティアカデミー、2010年)
明治大学校地遗跡発掘调査団编『明治大学和泉校地遗跡Ⅱ』(明治大学、2012年)