宫森和夫
1969年、この広告とともにモーレツが流行语に(「丸善石油ニュース」より)
2021.3
丸善石油元社長宫森和夫
明治大学史资料センター運営委員
白戸 伸一(国际日本学部教授)
宫森は、1902年広岛で丹羽家の9人兄姉の末っ子として生まれ、のちに长姉の嫁ぎ先である宫森家に养子として迎えられ、麻布中学校卒业后、1919年4月に明治大学商学部予科に入学し1925年3月に商学部を卒业している。大学时代の记忆として予科时代の同盟ストライキと関东大震灾を挙げている[1]。当时の明治大学は、1918年公布の大学令に基づく正规の大学に移行する过渡期にあり、1920年4月には财政难に喘ぎながらも法?商2学部を备えたものとして认可される。しかし、教室不足による合併授业をめぐって学生と学长?学监の间で轧轢を生じたり、「植原?笹川事件」と呼ばれた教授の解雇?復职をめぐる问题が起きたほか、1923年には関东大震灾があり、明治は东京の私学中「最高の被害」を被ったとされており、学生たちも自主的に焼け跡整理にあたったり、劣悪なバラック校舎での授业再开に耐えて学んだ。そんな中で宫森は「成绩は常に上位であった」という[2]。
卒业后、大阪の中坚银行である山口银行に入行する。この时期の商学部カリキュラムによると、簿记や商业経営学、経済学、财政学、货币论、商法などは必修、银行论や取引所论、各种保険论などが选択科目となっており、银行勤务には有益だっただろう。1933年、山口?鸿池?叁十四の3银行は财阀系银行に対抗すべく合併して叁和(现叁菱U F J)银行となる。戦后、G H Qにより财阀银行と同様に扱われ、経営者が追放されそうになるが、「ピープルズ?バンク」であることことを力説して除外される。大众からの预金获得に全行をあげて努力し、1949年には预金顺位3位に到达している。そのような中、宫森は1948年に堀留支店长、银座支店长などを経て53年には大阪本店业务部长に昇进すると、部の业务を従来の宣伝事业に留めず积极的预金获得诸事业にまで拡大し、その结果は叁菱(现叁菱U F J)银行を抜いて富士(现みずほ)银行に次ぐ预金高达成に繋がったといわれている[3]。
1960年には副头取として银行経営の重责を担うまでになっていたが、1964年には丸善石油取缔役社长として転出している。丸善石油は叁和银行をメインバンクとしていたが、急激な事业拡大のため1962年には技术提携先だった米のユニオン石油に1500万ドル(54亿円)の増资株式を引き受けてもらい、さらに米银行団から1500万ドルの融资を受けたものの、1963年3月期决算では52亿円という膨大な赤字を计上しており、経営危机にあった[4]。前任社长や関西财界の有力者から、宫森は积极的再建の适任者として乞われたである。宫森の就任の第一声は、「人生最后の胜负を当社再建にかける」だった[5]。彼は、関西の下津、松山に加え1963年には京浜工业地帯の千叶で製油所が本格操业を开始していたので、早期再建の键は流通?贩売体制の强化にあると考え、20万トン级の大型タンカーの用船、全国の给油所拡大?贩売强化、自动车メーカーやタイヤ?バッテリーメーカーとの业务提携を进めた。さらに1967年にはポリエステル系繊维原料の一贯生产体制を整え、化学繊维产业のニーズに応えている。このような结果、1967年3月决算では赤字が解消し、翌年にはユニオン石油からの株式买い戻しも実现している。また原油の确保のため1968年にはアブダビに、1969年にはアラスカに原油开発の现地法人を设立している。同社は高度経済成长を続ける日本経済や自动车产业の発展をエネルギー面で支える有力公司として业界でも确固たる地位を筑き上げた。かつて伊藤肇は宫森を、リスクのあるアブダビ进出を评して「民族资本结集の旗头」、あるいはその経営手腕から「行动の経営者」とも评した[6]。
1976年には会长职に退き、82年には明大O B経済人の集いである茗水クラブ第叁代会长にも就任している。1988年85歳で逝去。
[1] ダイヤモンド社编『明治大学出身』1969 ダイヤモンド社 79页。
[2] 同上 80页。
[3] 同上 84页。
[4]『丸善石油?35年のあゆみ』58页。
[5] 同上&苍产蝉辫;68页。
[6] 伊藤肇『干部の责任』徳间书店 1987 197-202页。