川合贞吉(同『ある革命家の回想』新人物往来社、1973年より)
リヒャルト?ゾルゲ(前掲书より)
日支闘争同盟に参加したメンバーと(於北京 1930年 写真右端が川合。前掲书より)
2021.3
川合 贞吉
—遅れてきた「大陆浪人」─
明治大学史资料センター研究調査員
土屋 光芳(政治経済学部教授)
1925年明治大学専门部政治経済科卒の川合贞吉(カワイ?テイキチ)はゾルゲ事件で検挙された人物である。戦后釈放され、刑死した尾崎秀実の名誉回復に努める。1948年春、明治大学记念馆讲堂で尾崎の追悼记念讲演会が开かれている。
戦后川合は多数の着书を出版した。『支那の民族性と社会』『女将—自由の嵐に立つ女』『北一辉』などの研究书、『遥かなる青春の日々に』『ある革命家の回想』『ゾルゲ事件狱中记』などの回想録がある。后者の回想録には、1930年代の激动の时代に大陆と日本で反帝国主义を目的として活动した中国在住の日本人や中国人共产主义者が登场する。
1901年岐阜県大垣生まれの川合は、在学中、学生社会科学研究会、7日会読书会などの组织に协力、反帝国主义、军事教练反対运动などに参加する。政友会の院外団の鉄心会に関係、1924年の第2次护宪叁派运动では立宪政友会の高桥是清の选挙运动にかかわる。この时、大川周明に师事していた萨摩雄次(1897-1966。1942年以降、代议士)から中国大陆の事情を聴き、中国行きを决意したという。
卒业后、日本新闻社に入社するが、辞めて组合运动にかかわる。当时の中国大陆では広东で树立された中国国民政府が北伐を进め、反日运动が激化、日本人居留民の不安が高まっていた。1927年田中义一内阁は山东に出兵、翌28年の2回目の出兵で、5月4日済南で北伐军と衝突する。川合は28年3月北京に渡る。张作霖爆杀事件が起きたのは同年6月であった。1930年初夏、上海に渡り、中国共产党员となったという特异な経歴を持つ。1930年から32年まで上海週报记者として取材活动をすると同时に日支闘争同盟を通じて反帝国主义运动を続け、1931年に朝日新闻社特派员の尾崎秀実と知り合った。尾崎からリヒャルト?ゾルゲ(コミンテルン?情报部)とアグネス?スメドレー(アメリカ人ジャーナリスト)を绍介され、ゾルゲのコミンテルンの情报収集活动に関わる。ゾルゲはナチ党员となって1933年日本に活动の拠点を移し、日本の対ソ、対米情报収集を行った。日本では新进の中国问题ジャーナリストとして活跃していた尾崎たちの协力を引き出し、日本の「南进」を闻き出しソ连に事前に通报した。川合もまた1935年に日本に帰国してゾルゲらに协力、1941年検挙、惩役10年の刑を受け、戦后、出狱した。
川合は社会运动家といってよいが、今日、「大陆浪人」(尾崎の甥の评论家、尾崎秀树)、あるいは尾崎の「取り巻き」(ゾルゲ事件研究者、チャルマース?ジョンソン)と见られている。また戦后颁滨础のエージェントとして反共活动に协力したとも言われる。そのいずれも间违ってはいないであろう。しかし、『ある革命家の回想』は1930年代の中国共产主义者との活动を生き生きと描き、そのなかで尾崎?ゾルゲと运命の出会いがあったことがわかる。また『ゾルゲ事件狱中记』は事件の背景を知るのに欠かせない书物となっている。
【参考文献】
尾崎秀树『上海1930年』岩波新书、1989年
【参考文献】
尾崎秀树『上海1930年』岩波新书、1989年
チャルマーズ?ジョンソン(萩原実訳)『尾崎?ゾルゲ事件』弘文堂、1966年(岩波现代文库版、『ゾルゲ事件とは何か』2019年)&苍产蝉辫;