2020.11
戦前韩国の「人権弁护士トロイカ」を辈出した明治大学
明治大学史资料センター運営委員 李英美(商学部教授)
この顷韩国では、戦前日本の统治下にあった时代に朝鲜の労働者、贫困者、抗日?独立运动家などのために无料で弁护を行い、大いに活跃していた「叁大人権弁护士」、「叁大民族弁护士」、「人権弁护士トロイカ」と称される、弁护士の许宪(1884~1951年)金炳鲁(1887~1964年)、李仁(1896~1972年)の関连书籍が出て、世间の注目を浴びた(すべて卒業順。以下、许、金、李と記す)。また、以前からも彼らを绍介する各种文章には、「全员日本の明治大学出身者」であるという书き添えや小见出しなどが付いていた。明治大学とはどのような大学なのか、韩国人の関心がそそられるところである。ここでは纸幅の関係上、叁人の明治大学への留学、帰国后の活动、祖国独立后の活跃を简略に绍介し、明治大学で学んだ彼らの韩国近现代史に残した足跡を确认するに留めたい。
●留学と帰国后の活动
留学生に门戸を大きく开いていた本学には、1896年に本学外国人留学生第一号の金相淳が法学部に留学して以来、朝鮮各地から多くの若者が留学してきた。三人も当時の例外にもれず他大学で学んだり、郊外生であったり、途中退学?復学や編入学などを経たりしながら、共通して本学法科を许が1908年に、金が1913年に、李が1918年に卒業した。
叁人は、特に1919年末から1930年代初にかけて高扬した、3?1运动や全国各地の独立万歳运动、义烈団事件、衡平社运动、小作争议、労働争议、同盟休学、光州学生运动などから、海外独立运动者関连事件、朝鲜共产党事件を含む各种共产党事件にいたるまで、当时治安维持法関连の殆どの朝鲜人関连事件を无料で弁护していた。特に1923年からは「刑事弁护共同研究会」を立ち上げ、本格的に事件の弁护を担当しながら、被告人家族への経済援助も行っていた。时には日本人弁护士とも连帯しながら活动した事件もあった。叁人はともに朝鲜弁护士协会会长を歴任し、民族运动の统一を目的に左右合同で结成した新干会(1927年)の幹部も務めていた。加えて、许は1929年に治安维持法违反で惩役4年を、李は1942年に朝鲜语学会事件で惩役2年(执行犹予4年)を受けていた。
●祖国独立后の活跃
1945年に祖国が独立すると、许は、同年に社会主義系の建国準備委員会副委員長、1946年に南朝鲜民主主义民族戦线首席议长、南朝鲜労働党委员长となり、左翼の大物政治家となっていった。1948年に入北し、同年8月に北朝鲜最高人民会议议长に、そして同10月には金日成大学(现?金日成総合大学)総长となった。朝鲜戦争中の1951年に川で事故死した(享年67才)。
金は、1946年に米军政庁期(1945‐1948年)の司法部长(司法大臣)、1948年に大韩民国初代大法院长(最高裁判所长)、法典编纂委员会委员长、1949年に反民族行為特别処罚委员会委员(以下、「反民特委」)を歴任した。1957年に大法院长を定年退职し、1964年に永眠した(享年78才)。社会葬。1962年に文化勲章、1963年に建国勲章を授与した。
他方、李は米军政庁期の検察総长、特别犯罪审査委员会主席法官(裁判官)、1948年に大韩民国初代法务部长官(法务大臣)、法典编纂委员会副委员长、1949年には「反民特委」委员长となった。また同年に国会议员となり、1963年の政界引退まで続けた。财产をハングル学会に寄赠し、1979年に永眠した(享年83才)。社会葬。1963年に建国勲章、1969年に国民勲章を授与した。
叁人とも南北単独政府树立の统一した祖国建设を目指したが、ついに叶わなかった。