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メイキング オブ ?????????「明治大学校歌の原型を聴く」 その2(キャンパス編)

 
2021.8

メイキング オブ ?????????「明治大学校歌の原型を聴く」 その2

 

明治大学史资料センター運営委員
福冈英朗(法学部事务长)
 

このコラムは当大学?????????动画「明治大学校歌の原型を聴く」

の、音楽再现部分と连动するコラムです。书かれているのはプロジェクトの全てではなく、僕の目撃した一部となります。
ここに描かれている以外の出演者、スタッフの皆さま、全ての力で、この动画は出来上がっております。

 
 その1(未発表)までのあらすじ。
 2017年のクリスマス、明治大学紫紺馆で行われた校歌原谱再现演奏イベントは无事终わった。これは山田耕筰が书いた谱面を、その谱面とおりに演奏、歌うというイベントで、现在演奏されているテンポよりも速いこと、今では歌われていないパートが有ることもわかり、その再现は、原谱と言いながら编曲を聴いているような(実际には、现在演奏されている内容のほうが编曲)错覚に陥るほど、「新しい」试みであった。
 达者なピアニストによる演奏と指导で、グリークラブの学生达は立派に歌い、予想を超える人数で来ていただいた聴众の皆様も満足してくれていたようだ。これで、再现は一段落つき、一旦终了、おつかれさまでした、となった。しかし、まだ、燃え尽きていなかった人物が一名だけ居た。
 
 〈3年后〉
 「やっぱりなんらかの、记録に残す动画は撮ろうと思うんです。校歌100年ですから。」
 2020年の7月、ゆっくりと、それでいて揺るがない决意を持ってムラマツさんは话した。聴くと、场所も明治大学アカデミーホールを予约したらしい。
 「うん。いいんじゃないかな?ピアニストも协力してくれるだろうし、そうだったんだ、もう100年経ったんだ?校歌作られてから。」とマスク越しに応える僕。时はコロナ祸まっさかりの夏、いろいろな制约がある中であっても僕は「まあ何かできるだろうな」というくらいの意识で话していた。
 ムラマツさんと僕は明治大学の职员。一般的にイメージされるいわゆる大学职员というものと、そんなに逸脱していないタイプ、辞谤诲颈苍补谤测な事务职员だ。就职キャリアセンターのイベントで学生へ校歌を绍介する际に、大学史资料センターのムラマツさんへ、校歌の成り立ちを确认してからのご縁だ。
 3年前と同じピアニストの协力は得られそうで、まずは谱面の原本とおり、しかも山田耕筰の音楽的な意志を解釈した上で演奏してくれる人が居てくれることが、なによりの味方だった。
 「あとは、撮影だね。谁も撮る人が居なかったら僕が撮るよ。后辈に映画监督が居るから、なにかコツを聴いておくね。」
 
 映画监督/守屋健太郎。もともと制作会社のテレビマンユニオンに所属しており、「世界ウルルン滞在记」や「食彩の王国」のタイトルバックを作ったりしていたので、多くの人も一度は彼の作った映像を観ているはず。惭痴は骋搁别别别别狈からタッキー&翼まで、多くの有名アーチストの作品を监督した。ドラマや映画では、それこそ森山未来、生田斗真、山田孝之、藤ヶ谷太辅、等々、などなど、谁もが知っている人达を演出している。日テレの朝、「ZIP!」のブレーンもしていたので、テロップに名前が出てくると嬉しかったりもした。明治大学法学部の卒业生でもある。
 その彼へ、ドキュメントの撮り方について聴こうと电话をかけてみると「そうですか。面白そうですね。なんなら现场行ってお话してもいいですよ。」とのこと。タダでわざわざ话を聴きに来てもらうのも悪いので、神保町のマンダラにてお昼を一绪に食べることとした。テーブルに斜め座りしてディスタンスを取って。8月の初旬だった。
 食后、忌野清志郎の影响で自転车移动している(その日も世田谷のほうから自転车で来ていた、8月初旬ですよ!)彼から、自身の自転车がどれだけ格好良いかの説明を聴きながら、明治大学アカデミーコモンへ向かい、そこでムラマツさんと会ってもらった。
 ムラマツさんは丁寧に资料の説明をして、真挚に、残したい物、大切にしたい事の话をしていた。すると徐に守屋监督が「僕、撮りましょうか?」と言い出した。いやいや、予算も无いから、そりゃ无理ですよ、と丁寧に断るムラマツさんと僕。すると守屋监督、「报酬要りませんよ、僕にやらせてください。」と言った。
 惊きながらも「それなら」と既に决まっているピアニストや、会场であるアカデミーホールのこと、スケジュール(2ヶ月后に完パケが必要)について等、今后の段取りを简単に説明した。映像は撮ってくれるとしても、演奏の録音方法(ムラマツさんは颁顿クオリティで音も録りたいと思っていた)は决まっておらず、谁も居なかったら録音は僕が担当することを伝えた。
 その帰り道、守屋监督へ话しかけた。
 「大丈夫なの?报酬无しでやるなんて。」と僕。
 「大丈夫ですよ。コロナ祸で映画の予定が延びちゃったし。」と守屋监督。
 「いやいや、でもタダなんて。」と僕。
 「僕、今まで大学に寄付したこと无かったのですよ。なので、これが寄付の代わりとなればな、と思って。」
 この守屋监督の言叶は、この后もずーっと、僕の中に残った言叶だった。人が人へ贡献したいという、纯粋な想いを聴くことができた瞬间だった。
 「それに、ムラマツさん良い人だったし。」
 そっか、そういう考え方もあるんだ、有难いね。ん?
 「ちょっと待って、最初にオレが话した时にはやるって言わなかったじゃん。ムラマツさんは良い人だとしても、オレが言った时ではダメだったんだ?」と器の小さい僕が寻ねると、
 「カレーも美味しかったですよ。」守屋监督はそう言うと、えへへと笑っていた。

 録音については、僕がやると言っていたが、後日、守屋監督がHappiness Recordsの田中正さんを連れて来てくれた。彼もOBで「お前、先輩なんだから、母校へ貢献しようよ」と守屋監督が説得してくれたらしい。Happiness Recordsに所属するSaigenjiさんのことを、20年以上前に下北沢で良く観ていたので、嬉しかった。当時Saigenjiさんは超絶ボサノバギターを弾きながらホーミー(当時ホーミーを知る日本人は少なかった)を歌っており、衝撃を受けたものだ。
 これで、ピアニスト、会场、撮影监督、録音が决まった。もう撮影まで一ヶ月しかない、突贯工事で準备を进めなくてはならない。キツイけど顽张ろう。という时点で、予定していたピアニストが参加できなくなったという连络が入った。
 今回のプロジェクトで、最大のピンチだった。必要なのは、ピアノが弾ける人、じゃない。山田耕筰が何を考えて谱面を书いたのかを理解し、その上で解釈して弾ける「ピアニスト」でないといけないんだ。
 
 そんな时、久しぶりに従妹から僕へ电话がかかって来た。コロナ祸の8月、世の中ではおひとりさま、とか、おうちじかん、などの言叶が浸透し始めていた。星野源の歌も、流行っていたような。
従妹も、家に居る时间が増えたのでギターを弾きたい、ついてはギター购入に付き合って欲しいとのことだった。一绪にお茶の水を何周かして、少し予算オーバーだったが、最终的にテイラーのアコギを选んだところが、耳が良い、さすがピアノやっているだけある、ん!ピ?ア?ノ?「あれ?君、ドイツでピアノを勉强していなかったっけ?」「うん。ドイツの音楽大学で勉强したよ。音楽教育部と演奏家学部を卒业したよ。」
 
——————————ーーーーーーーーーーーー 少しだけ息継ぎをした后、
9月のスケジュールが空いていないか?山田耕筰の原谱の再现に兴味あるか?彼もドイツで音楽を学んだことに同じ日本人として共通点を感じるんじゃないか?等々、矢継ぎ早に聴いてみた。彼女は「原谱の再现には兴味がある。担当の人に会うのも构わない。」とのことで、早速ムラマツさんとの打合せを调整した。
 ピアニスト土山亜矢子はムラマツさんに会うと即答で「やります。」と言った。帰り道でその理由を聴くと「うん。なんかムラマツさん、真面目で良い人だったから。」とのこと。「ねえ、最初にオレが话した时には即答しなかったじゃん。」と器の小さい僕は何度でも同じ问いを言うことができる。土山さんも守屋监督と同じように「えへへ」と笑っていた。
 守屋监督も何度もロケハンをしに、大学へ来てくれたが(ほんとにノーギャラで良いの?)、土山さんもピアノの练习に何度も来てくれた。アカデミーホールのピアノ(彼女はドイツ语で「シュタンウェイ」と言っていた)も気に入ってくれていた。
 
 演奏も、撮影も、録音も、会场も、準备できた。あとは歌だ。时はコロナ祸の日本、コロナ祸の大学。学生に集まってもらって歌うことは许されないし、入构制限だってかかっている。
 そのような状况の中、明治大学グリークラブ翱叠会の渡辺利雅さんが参加してくれることとなった。14人のメンバーも集めてくれたし、インタビューも受けていただけることとなった。実はこの时まで、歌う人间が见つからなかったら、専任职员(职员には入构制限は无いので)数名で歌うことも计画し、実际に声をかけていた职员も居た。声をかけられていた职员は、渡辺さんが引き受けてくれたこと知って、ほっとしただろうと思う。
 渡辺さんは、事前のオンライン会议にも参加してくれ、我々との意思共有に心を砕いてくれ、さらに、14人のメンバーへの练习や指示まで、いろいろなところへ目を配って歌の形を作ってくれた。撮影当日、メンバーが威风堂々とアカデミーホールへ入って来たときの頼もしさ、格好良さを今でも思い出す。
 
 リハーサルの际、最初に気にしたのは、土山さんと渡辺さんの関係性だった。ミュージシャンとヴォーカリストの间に、ある种の紧张感があることは、昔からよく知っているからだ。キースリチャーズとミックジャガー、布袋寅康と氷室京介等々。础测补蝉别と颈办耻谤补はそんな风には见えないな。
 そんな心配は杞忧に终わり、二人はどんどん演奏して、どんどん歌って、原谱の解釈を建设的に议论し、整理していった。间に居た僕は「この31小节目なんですが、ここは、こうなのでは?」「33小节目はこう~」という二人の会话に合わせて、一绪に议论していた。「僕が谱面読めないことは、今、二人は想像だにしていないだろうなあ」と思いながら。谱面は読めないが、数字は数えられるので何小节目かはわかるし、弾いたり歌ったりしてくれるので、选択や判断もすることは出来た。でも、今、これを読んで、二人はびっくりされていると思います。「谱面読めていないのに、我々と一绪に议论していたのですね!」
 その后、本番。ベストのテイクが、今我々が観ることのできるこの演奏です。
ピアノも歌も、これまでのベストだし、今后もベストであり続ける内容です。
 録音物を持ち帰り、田中さん达が素晴らしいミックス、マスタリングを施してくれた。歌词がはっきりと聴こえる仕上がりにしてくれた。ホールの残响というものは、録音において稀に邪魔となってしまうことがあるが、それを上手に活かし、それでいてピアノのアタックまでしっかりと聴こえるミックスは、ヘッドホンで聴いても、笔颁のスピーカーで聴いてもバランスの良い音像を作り出していた。
 
 四週间后、私が担当する最后の仕事があった。ナレーションの録音エンジニアだった。确か予算的にも、この担当は谁もおらず、私が担当することとなった。で、これが个人的には一番紧张した。失败してはいけないからだ。やり直しもできない、演者に待ってもらうこともできない、言われた时に言われたとおりのことをやらなくてはならないから。
 それとは逆に、素晴らしい経験でもあった。守屋监督が演出し、叁ツ矢さんが演じている、プロとプロとの仕事を间近で见ることができたことに感动した。
 とにかく録音、叁ツ矢さんの声を一言でも溢すことはできない。ワンテイク目がリハより音が大きく、レベルオーバーした时は「ごめん!止めて、オーバーしている!」と监督へ大声で泣きついたらまだリハだった、ほっとしたー。
 録音终了后は编集で、これがまた、キツかった。「2テイク目の何秒と、3テイク目の何秒を聴き比べさせてください」「あそこの何秒とここの何秒をつなげてみてください」なんて指示がどんどんやってくる。「え?五つ目のナレーションの、4テイク目の前半ってどれだっけ?あわわ」なんて思いながらも、必死で指示に食らいついて行った。でも、たぶん、监督はあれでもゆっくり进めてくれていたのだろうな。最终的に、この経験をさせてくれたこと、私个人として本当に思い出に残る素晴らしいものとなりました。
 
 このコラムの最初を読み返すと、ムラマツさんの着想から3ヶ月でこの作品が出来上がったこととなる。歌と演奏、音质、画质、演出、プロデュース、どれを取ってもとんでもないクオリティのものが、3ヶ月で完成していた。これも読み直して欲しいが、最初の计画では、僕が撮影して、録音するところだったのだ、ほんとうに危ないところだった。

 今回の一连のプロジェクトを见ていて、「あー、100年前も同じような感じだったのだろうな」ということをふと思った。100年前にも、たった叁人の学生が大学を动かし、児玉花外を动かし、山田耕筰を动かし、山田が西条八十を动かし、、、、そういった流れの中で、明治大学の校歌が出来上がっていったことを想像することができた。
今回のプロジェクト过程を目撃することで、「物事は、人のハートによって成されるものなのだ」ということを改めて认识することができた。
 一人だったムラマツさんのハートが、守屋监督をはじめ、出演者や関係者を动かし、最终的に今后100年残るドキュメンタリーを作り上げてしまった。つまり、このプロジェクトの制作过程そのものが、100年前の校歌诞生の再现だったのだ。
おわり
 

 おまけ
 実家で、校歌が出来た顷の写真が无いか探してみた。この方は僕のおじいちゃんで、写真の里には大正元年十月生まれとあり、今年(つまりこの写真が撮られた年)十才と书かれている。大正元年は1912年であり、満十才であればこの写真は1922年撮影。ただし、当时は数え年で言うこともあったので、その场合は1921年となる。100年前だ。1921年、100年前に、僕の顿狈础が生きていた(と言うのは乌滸がましいですね、正确にはおじいちゃんの顿狈础の一部を僕が引き継ぐのです)と、改めて考えてみると、不思议な感じが芽生えた。