2022.1
阿久悠「时代おくれ」のアイロニー
明治大学史资料センター運営委員?阿久悠记念馆運営責任者
冨泽 成实(政治経済学部教授)
阿久悠记念馆は今年、2022年10月に開館10周年を迎える。作詞家?阿久悠が亡くなってから15年の歳月が経過することになるが、彼が手がけた楽曲が日本で暮らす人びとの耳に入らない日はない、といってもあながち誇張にはならないだろう。5回にわたって日本レコード大賞を受賞し、5000曲を超える作詞作品を遺した業績はなお、燦然と輝いている。
そのなかで、静かながらいまなお人気をえている楽曲のひとつに、河岛英五が歌った「时代おくれ」(作曲:森田公一)がある。不如意なことは确かにあるが、それでも日々の生活のうちにある、ささやかな幸福をかみしめ、改めて足ることを知ろうとする男性の愿いが歌われている。作词家自身、「大股でスタスタと跨(また)いでしまった歩幅の中ほどに、大事なものがあ」ることを「言いたかった」(『爱すべき名歌たち』岩波新书、1999?7)と、この曲のモチーフについて后に语っている。
ところで、1965年のデビュー以来、阿久悠は时代の先端を探り、それを作词曲のなかに投影してみせることによってヒット曲を量产してきた作词家だった、といってよいだろう。「歌は时代とのキャッチボール。时代の中の隠れた飢饿に命中することが、ヒットではなかろうか」(『生きっぱなしの记 私の履歴书』日経ビジネス人文库、2007?12)と、作词家としての指针をまとめた「作词家宪法」の第15条に记したように、同时代を生きる人びとが无意识のままに欲しているものを、楽曲を通じてはっきりと提示し手渡してきたのであった。
このように时代の先端を切る作词家?阿久悠にしてみると、熟年期に书かれた「时代おくれ」は文字どおり、时代の感覚に合わなくなった古臭い楽曲のようにも见えはする。実际に、「スタッフからの受けは良くなかった」し、「辛気くさい」(阿久悠『「企み」の仕事术』碍碍ロングセラーズ、2012?6)曲だと阴口をきく者もいたようだ、と完成直后に受けた不评を回想的に述べてもいる。作词家自身もこの主人公の佇(たたず)まいについて、どこか「みじめ」で「みっともない」(同前)とも语った。一方阿久悠の作家的な人生についていえば、作词家としての全盛期である1970年代はすでに过ぎ去り、おもに1980年代以降は小説へと创作の中轴を移してもいて、歌謡界のヒットメーカーとしての辉きに翳りが见えはじめていたのも否めないことだった。「时代おくれ」とは、主人公に作词家自身を重ねてみせた、自嘲的なタイトルだといえなくもない。
しかし、「(1986年のレコード発売当時は——括弧内冨澤)売れなかったが、この歌は消えなかった。(中略)地味だがファンをひろげて、ある時から売れるようになった。発売から時差があって、河島英五はこの歌で紅白歌合戦の出場を果たした」と『愛すべき名歌たち』のなかで続けて書いたように、1991年6月放送のNHKテレビ番組「阿久悠 歌は時代を語り続けた」を契機に人気がではじめ(「時代おくれがなぜかはやり」、『日経流通新聞』1991?9?12参照)、大晦日の「第42回 NHK紅白歌合戦」への登場という結果に繋がったのだった。
「90年の年明けとともにはじけた」経済学的な事実の一方で、「91年、92年ごろは、バブルがはじけたとは、だれも気がつかなかった」(冈本勉『1985年の无条件降伏 プラザ合意とバブル』光文社新书、2018?1)のがもう一つの実情だったとすれば、この楽曲が大众の支持をえた1991年の世の中は、日本人の生活実感としてはまだ「バブル」のただなかにあったのである。この曲が书かれた1985年とシングルレコードがリリースされた1986年の2年间についてはここでは问わないが、1991年のこの年、阿久悠の言うとおり、「バブル」の幻影のなかで、「谁も彼もが自信満々で阔歩」し、「ブランド商品を身につけ、海外旅行をし、别荘やクルーザーの购入を语り、财テクこそ幸福への道と信じて」(『爱すべき名歌たち』)いた。
この曲の主人公の构えが「时代おくれ」であり、「みじめ」で「みっともない」(そしてそれと背中合わせに、ある种のダンディズムを発露している)とすれば、それは主人公が身をおく世の中が「バブル」景気に兴じているからである。かりに、世の中の状况が异なれば、たとえば第6波のコロナ祸にあえぐ今日であれば、仕事帰りの同僚との饮食やカラオケなどといった行為は羡望の対象にさえなりかねない。主人公のみじめさもダンディズムも、あるいは阴影を帯びた雰囲気も、「バブル」下にあってはじめて成立するのである。そうであるとすれば、「时代おくれ」は逆説的ながら、时代を见つめ时代を投影した、优れて阿久悠的な作品なのだ、ということができるにちがいない。