2022.2
1910年代の中等?高等教育制度について——『回想 佐々木吉郎』の1节から——
明治大学史资料センター運営委員
若林幸男(商学部教授)&苍产蝉辫;
本书は1918年に明治大学に入学され、その后本学の名物教授、学部长、総长を歴任された佐々木吉郎先生の3回忌に出版された追悼集である。このなかに先生がご自分の半生を振り返られた遗稿、「私の足跡」がおさめられている(初出は『明治大学新闻』1960年6月23日)。先生が中学を卒业されてから明治大学の予科に入学された経纬を语られている部分を抜き出してみると以下のようになる。
お父上の事業の状況から、「中学を卒業して約2年間は今は三次市になっている広島県の山の中の田舎にひっこんでいた」が意を決して進学のため上京、受験をしたのだが、入試に落ち、そうこうしているうちに二十歳になる。戦前で徴兵検査があるが、徴兵の猶予を手続きしなければならなかったので1918年に明治大学に入学されたという。この四月、予科の一年の際に当時英語経済原書を担当されていた藤森達三先生(図书馆長など歴任)に「明治大学の卒業生から学者出でよ…中略…えらくなればどんなよい嫁でも貰える」と説教されたという。ご自身の「心の琴線にふれたとみえて、われこそはと(学者になることを…筆者補足)決心した」と記されている(同書26-27頁)。
お父上の事業の状況から、「中学を卒業して約2年間は今は三次市になっている広島県の山の中の田舎にひっこんでいた」が意を決して進学のため上京、受験をしたのだが、入試に落ち、そうこうしているうちに二十歳になる。戦前で徴兵検査があるが、徴兵の猶予を手続きしなければならなかったので1918年に明治大学に入学されたという。この四月、予科の一年の際に当時英語経済原書を担当されていた藤森達三先生(図书馆長など歴任)に「明治大学の卒業生から学者出でよ…中略…えらくなればどんなよい嫁でも貰える」と説教されたという。ご自身の「心の琴線にふれたとみえて、われこそはと(学者になることを…筆者補足)決心した」と記されている(同書26-27頁)。
1910年前后までの日本の中等、高等教育制度は错そうしていた。佐々木先生の述懐は制度の変革期、その涡中の少年の様子を率直に表している。そもそも义务教育の上位の第二次、中等教育机関であるはずの中学校が1府県1校しかない。したがって、当时、中学校に进学する人数はきわめて少なかった。先生の小学校からも进学したのは「医者の子供と私」だけだったという。本来はこの中学の上位に位置する第叁次、つまり高等教育机関は当然にその数が些少かと思いきや、逆で、多くの専门学校群を构筑することで、多くの少年少女の向学心を吸収していたのである。明治大学もその一角に属していた。
中学を卒业していればほとんど无试験、そうでない场合でも専门学校入学者検定试験(専検)をパスするなど、中学校卒业と同等の学力と认められれば、教育机会を得ることができた。専门学校で入学试験があったのは医学?工学系などの一部に限られていた时代である。つまり、この时期の教育制度は现在のように义务教育から上级へ进学するにしたがってつぼんでいく、△形ではなく、中央が极端にくびれた砂时计のような形をしていたのである。
中学を卒业していればほとんど无试験、そうでない场合でも専门学校入学者検定试験(専検)をパスするなど、中学校卒业と同等の学力と认められれば、教育机会を得ることができた。専门学校で入学试験があったのは医学?工学系などの一部に限られていた时代である。つまり、この时期の教育制度は现在のように义务教育から上级へ进学するにしたがってつぼんでいく、△形ではなく、中央が极端にくびれた砂时计のような形をしていたのである。
また、二十歳になると徴兵検査がある。検査の后は徴兵(现役2年间)されてしまう。戦争でも始まればこのまま现役徴集され、戦地行きになる。これを回避する方法の一つが高等教育机関への进学であった点も上の述懐の通りである。进学者には一年志愿兵制度が适用され、干部候补になれる。就职が决まった年あたりにこれを繰り延べることもできる。多くの若者がこのためにも第叁次教育机関に进んだのである。
先生が学者の道を选ばれた下りは、先生らしいユーモアで语られている。研究者になると「どんなよい嫁」も貰えると先生が本気で思われたとは考えないが、二十歳の若者が进路を决めるには様々な些细なきっかけがあり、先生方の「説教」も役に立つことがあるのかもしれない。人生とは、など学生に分かった风にくだらない説教をしている私も少しは勇気をもらえるエピソードである。