明治大学校友会主催の讲演会について报じた记事(『釜山日报』1929年1月19日)
2022.3
日本统治期朝鲜における校友会活动
明治大学史资料センター運営委員
山下达也(文学部准教授)
山下达也(文学部准教授)
明治大学校友会は大学が唯一认可している校友(卒业生)の団体であり、それぞれの地域で活动する支部は日本国内だけでなく、韩国や台湾にも设置されている。
戦前、日本统治期の朝鲜半岛においても校友会が组织されており、留学生を含む明治大学の卒业生たちによる活动が确认される。
本コラムでは、当时の新闻に掲载された记事から1920年代后半顷の朝鲜半岛における校友会活动の一端を绍介したい。
1927年9月18日の『京城日报』には、「在京城明治大学校友に告げる」という告知记事が掲载されている。内容は、记事が掲载された4日后の9月22日开催の「京城明治大学校友会」の案内であり、そこには、「今般来城の明治大学々长横田秀雄先生の歓迎会に併せて校友支部会を开催候に付万障御繰合せの上御出席相成度此段御案内申上候」とある。当时の明治大学学长であった横田秀雄の京城来访を歓迎する会にあわせて支部会を开催するというものである。学长の来访を歓迎する会が校友会によって开催されたことは、当时の朝鲜における校友会と大学とのつながりを窥わせる。なお、记事によれば、この会への参加希望者は、「蓬莱町叁丁目吉田正一方」までその旨申し出ることとされ、当日は会费「五圆」を持参することが案内されている。
次に绍介したいのは、1929年1月19日の『釜山日报』に掲载された「明大校友会の讲演会 平壌公会堂にて」という记事である。これは、同年1月14日に平壌府公会堂にて开催された明治大学平壌校友会支部主催の讲演会について报じたものである。记事の内容からは、同讲演会が平壌府后援の下に开催されたことが分かるほか、当日の演题が、「自由思想を通じて正法社会の建设へ」(饭村保治)、「现代青年学徒はかく叫ぶ」(冈本昌智)、「现教育制度の批判」(石井林之)、「昭和新人の新生命」(土肥正敏)「社会改造より创造へ」(金凤竹)であったことが分かる。记事によれば、同讲演会には、670名の参加者があり、「午后八时顷盛大裡に闭会した」という。平壌での讲演会の様子が『釜山日报』で报じられているという点からも、同讲演会が朝鲜全土レベルでの注目を集めるものであったことが窥える。
『釜山日报』には、1930年12月23日にも明治大学校友会関係の告知记事が掲载されている。记事は「明大校友会忘年会」のタイトルで、翌日开催の明治大学校友会釜山支部の送别会兼忘年会についての告知を行うものである。具体的には、「今回釜山地方法院から晋州法院支庁へ栄転になつた校友予审判事高野弥一郎氏の送别を兼ね忘年会を来る廿四日午后六时から南滨の料亭ミワツで开催することになつた」というものである。通知洩れや最近釜山在住となった校友への告知とされ、出席希望については、「水晶町一〇二八洼田弁护士方若くは朝鲜银行佐藤藤次郎氏」まで申し込んでほしい旨が记されている。なお、会费は「七圆」とある。记事の内容からも分かるように、朝鲜の校友会メンバーは帰国した留学生たちに限定されていたということではなく、また、その活动には在朝日本人校友のつながり、交流が含まれていたことが分かる。
このように、当时、朝鲜半岛で発行された新闻には明治大学校友会関连の记事が掲载されることがあり、その内容からは断片的ではあるものの、日本统治期の朝鲜半岛における校友会の具体的な活动を窥うことができる。
【参考文献】
「在京城明治大学校友に告げる」、『京城日报』、京城日报社、1927年9月18日
「明大校友会の讲演会 平壌公会堂にて」、『釜山日报』、釜山日报社、1929年1月19日
「明大校友会忘年会」、『釜山日报』、釜山日报社、1930年12月23日
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閲覧日:2022年2月20日
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