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和泉キャンパス予科校舎が语ること(キャンパス编)

予科校舎建設図面(明治大学史资料センター所蔵) 竣工当初の予科校舎(3阶建て) 4阶増筑后の予科校舎(1965年ころ)

2022.4
&苍产蝉辫;和泉キャンパス予科校舎が语ること

明治大学史资料センター運営委員
野尻 泰弘(文学部准教授)
 
【予科校舎について】
 学生があふれていた大讲义室、友人と谈笑したゼミ教室。大学の校舎は、学生にとって大切な思い出の场所であろう。このコラムでは、和泉キャンパスにかつて存在した予科校舎をとりあげ、明治大学と社会の変化を眺めてみたい。
 和泉キャンパスの正门を过ぎた左侧、现在メディア栋がある场所には、かつて予科校舎(旧第一校舎)があった。予科とは、大学の専门课程に进学する前に予备教育を行う机関である。2年または3年にわたり教养を学ぶ课程であり、1955年(昭和30)まで存在した制度であった。明治大学の予科は当初骏河台にあったが、より良い教育环境を求め、1934年の和泉キャンパスの开设にともない予科も移り、新筑の予科校舎で授业がスタートした。
 予科校舎は、白くモダンな外観から白亜の殿堂と称された。1934年に竣工し、1989年まで使用された。大学史资料センターが保存する予科校舎の设计図をみると、校舎は3阶建てで、1阶には职员室や生徒控室、教室や銃器保存室がある。2阶には大小の教室が十数室あり、3阶の教室もほぼ同じ仕様であった。銃器保存室は、当时军事教练が授业に组み込まれていたため设置されたのである。
【トイレ事情】
 予科校舎设计図の各阶には「便所」が记され、すべての「便所」に和式大便器と小便器が描かれている。小便器があること、また予科は男子学生のみの课程だったことから、设计図の「便所」は男性用トイレとみられる。しかし、ここで疑问が生じる。戦后、明治大学は新制の私立大学となり、予科も廃止された。予科校舎は第一校舎と改称され、1951年には4阶が増筑され、1989年(平成元)の取り壊しまで使用された。戦后の和泉キャンパスには女子学生も在籍し、旧予科校舎を使用していたはずであり、男性用トイレだけでは困るのではないか。
 1950年代から90年代、和泉キャンパスには文系学部の1?2年生が9000名余在籍していた。このうち女子学生の在籍比率を推定すると、1950年代から60年代初めは约2%、70年代から80年代初めは10%前后、1990年代初めは20%前后、2000年代初めは30%前后、2010年代から2020年代は30%台半ばとみられる。旧予科校舎が使用されていた80年代末、和泉キャンパスで过ごす学生のうち约2割は女子学生と考えられる。
 では、当时、旧予科校舎のトイレ事情は一体どうなっていたのか。设计図を眺めながら笔者がこのような疑问を口にしたところ、文学部高田幸男先生(大学史资料センター副所长)から贵重な証言をいただいた。1979年に明治大学に入学された高田先生によると、旧予科校舎は1号馆と呼ばれ、ゼミや中规模の讲义、サークルの集まりで使用していた。そして、廊下から小便器がみえるトイレであったという。それが、ある日、そのトイレに女性用との张り纸がなされ、男性用トイレを女性用に転用していた记忆があるという。また当时女子学生(1985年入学)だった方の証言によると、旧予科校舎のトイレは、普通の女性用トイレだったが汚かった印象であるという。
 1970年代末から80年代、女子学生の増加にともない旧予科校舎の男性用トイレは女性用に転用され、当初は张り纸で急场をしのぎ、のちに改装をしたとみられる。ただ、それも全面的な一新というより、一部改装という程度だったのだろう。当时の女子学生にはもちろん、全学生にとっても心休まるトイレではなかったと思う。トイレ事情からは、学生数の変化、古い校舎の仕様、当时の意识が垣间みえる。
【変わる明治大学】
 かつて明治大学の校風はバンカラといわれていた。荒々しい風体や雰囲気が校風といわれたのは、男子学生が多かったことにもよるのだろう。しかし、学生の男女比の変化や校舎の新築(メディア棟2005年竣工、図书馆2012年竣工)に象徴されるように、2000年代前後からその様子は激変し、キャンパスも華やかになった。以前とは違った活気が今の明治大学にはある。そして現在では、ジェンダーやバリアフリーなどに配慮した取り組みがなされ、大学の施設も大きく様変わりした。
 学生が亲しむ校舎は、大学と社会の変化を映す。様々な人が集い、语らい、良き思い出を纺ぎ出す。明治大学の校舎がそのような机会を提供する场であることを愿ってやまない。