松下浩幸(农学部教授)
イギリス留学から帰国し、东京大学讲师となった夏目漱石(1867—1916)が、明治大学の兼任讲师となったのは明治37(1904)年4月であった。その10年後に明治大学(法科)を卒業した作家に子母泽寛(1892-1968)がいる。漱石と子母泽に直接の接点はないが、しかし、この二人にはある共通点がある。
江戸の最后の年、庆応3(1867)年に现在の新宿区喜久井町の名主の五男として生まれた夏目漱石(本名?金之助)は、明治大学の讲师を务めた翌明治38(1905)年1月に、作家としての第1作『吾辈は猫である』を雑誌「ホトトギス」に掲载し始める。さらにその翌年には『坊っちゃん』を発表するが、その中で漱石は主人公の「坊っちゃん」を元旗本の后裔である生粋の江戸っ子として描き、その相棒である堀田(山嵐)を最后まで江戸幕府侧に立ち维新政府と戦った会津の出身として设定している。そして、二人が敌対する教头の「赤シャツ」は「ホホホホ」とまるで公家のような笑い方をする男である。文学史家の平冈敏夫氏はこのような『坊っちゃん』という作品を佐幕派のパロディーと指摘しているが、事実、无鉄砲な「坊っちゃん」を可爱がる下女の「清」は、「(幕府の)瓦解のときに零落」した女性とされており、江戸生まれの漱石が、无理な西洋化を推し进める明治の近代社会の反措定として、江戸の末裔たちをこの物语に登场させていることが分かる。
一方、「座頭市」の原作者であり、『新選組始末記』をはじめ『勝海舟』や『父子鷹』などの幕末物の歴史小説で知られる子母泽寛(本名?梅谷松太郎)のテーマのルーツは、育ての親であった祖父の梅谷十次郎にあったと言える。父母との縁が薄かった子母澤は、この祖父に可愛がられて育てられた。十次郎は戊辰戦争で上野の彰義隊の一員として戦い、その後、箱館五稜郭の戦いで捕らわれ、厚田郡厚田村に移住した江戸幕府の御家人であった。村の名前である「アツタ」は一説ではアイヌ語で「荒海の浜」を意味するとされ、石狩湾に面した長く厳しい冬が続くその村で、子母澤は祖父から新政府軍によって敗れていった者たちの話を寝物語として聞かされたことが、後に彼の世界観を形作ることになる。
北の厳冬の地で、今はなき江戸への思いを抱き続けた子母泽は、やがて上京し明治大学に入学する。彼がなぜ明大を选んだのか、その経纬は详らかにされていないが、かつての江戸の痕跡を多く残す神田や近くの上野の风景が、子母泽の心を动かしたのかもしれない。明大卒后、紆余曲折を経て、新闻记者として活跃した子母泽は、その取材の経験から遗谈?回想録などを盛り込んだ独自の叙述スタイルを生みだし、その成果はデビュー作『新选组始末记』(昭和3年)に结実していく。奇しくもその年は明治维新から60年目にあたった。风化しつつあった幕末维新の记忆を、子母泽は「闻き取り」という手法によって后世に残そうとした。それはかつて自身が聴いた祖父?十次郎の声を书き留めようとするかのようである。
夏目漱石や子母泽寛の文学には、時代の変化に軽々には便乗することのできなかった者たちの、哀切にも似た反骨の精神が流れている。
なお、子母泽寛の故郷?石狩市厚田区では、1974年に「子母泽寛文学碑」が建立され、また2016年からは「厚田ふるさと平和?文学賞」が創設され、子母泽寛の文学への顕彰と、新たな文学の創出を目指し、「子母泽寛文学賞」(短編小説部門)と「愛猿記賞」(エッセイ部門)が設立されている。