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阿久悠日记と志贺直哉(文化人编)

自宅でくつろぐ阿久悠夫妻。后ろの书棚に讲谈社版『日本现代文学全集』が见える(深田太郎氏所蔵)。 阿久悠所蔵の讲谈社版『日本现代文学全集 49   志贺直哉集』(昭和35年)

2020.11

阿久悠日记と志贺直哉


明治大学史资料センター運営委員 
阿久悠记念馆运営责任者     
冨泽 成实(政治経済学部教授)

 

 本学の校友である阿久悠(19372007)はある时期、近代日本の小説家?志贺直哉(18831971)の数多くの作品を热心に読んだことがあったが、彼の书斎には大部の志贺直哉全集が并んでいたのだろうか。──かつて私はこのような疑问を抱いたことがあった。

 阿久悠は「また逢う日まで」「北の宿から」「胜手にしやがれ」「UFO」「雨の慕情」で合わせて5回の日本レコード大赏を受赏し、生涯に5000曲を超える作词を手がけた昭和歌謡の巨人である。他方で、彼は1981年から死去する2007年までの26年半にわたり文字どおり毎日、日记を(したた)めていた。「アンチロマンの日記」(『日記力 『日記』を書く生活のすすめ』2003?6、讲谈社プラスアルファ新书)と彼自身が述べたように喜怒哀楽などの感情を极力抑制した点が大きな特徴だが、政治や経済からスポーツ、芸能、娯楽上の出来事までをも详细に记録した阿久悠日记は、1980年代から2000年代にかけてのわが国の30年间がどのような时代であったかを雄弁に语る贵重な史料でもある。日记を、彼の大きな业绩のひとつに数えることは误りではないだろう。

 阿久悠日记全27冊は本学の阿久悠記念館に保管されている。明治大学史资料センターのもとに設置された昭和歌謡史研究会の分科会「日記研究会」のメンバーのひとりとして、2014年から2016年にかけて全册に眼を通す机会に恵まれた。その作业の过程で、私の研究対象である志贺直哉に関しての记述が日记中に2箇所あることを発见した。

 一部分のみの引用になるが、1986922日には「何となく一番文章のうまい人のものを読んでみようという気になり、それならと、志贺直哉全集をひっぱり出して来て、30数年ぶりに読む。(中略)道に迷ったらスタートへ戻れということでもないのだが、何となくほっとする。」とあり、翌23日には「昨日にひきつづき、志贺直哉をまるで学生时代の読书のように読みふけり、短篇は全部読む。」と记されている。この2日间で、志贺直哉の初期から后期にいたるまでの短编および中编小説とエッセイを、あわせて40编読破している。何げなく始めた読书だったものの、読み进めるとすっかり梦中になり、大いに充足感を得た贵重な読书体験だった。引用は避けるが、日记中には読了した40编のタイトルが逐一记述されており、それを见れば、入手しやすい文库本などによる読书ではないことは明らかだった。

 明治大学史资料センターの村松玄太さんに調べていただいたところ、ご遺族から寄贈された阿久悠の蔵書のなかに、志賀直哉作品を収録した書籍は全部で3册あった。そのうちの2册は新潮文库と角川文库であり、もう1册は『日本现代文学全集 49 志贺直哉集』(讲谈社、「昭和351220日 発行」)だった。唯一の長編小説「暗夜行路」と講演会開会の辞「若き世代に(うった)ふ」の2编以外は、この讲谈社版『志贺直哉集』の収録作品と完全に一致するので、阿久悠の手にしたテキストはこの书籍にちがいない、と私は推測したのだった(拙稿「阿久悠日記のなかの志賀直哉に関する記述をめぐって」、明治大学史资料センター『大学史紀要』第25号、2019?3)。

 それからしばらくして、阿久悠研究を継続する私は「阿久悠と东京」を特集した雑誌『东京人』通巻387号(2017?9)に眼を通した。その際、与那原恵?文「作詞家前夜「深田公之」の東京地図」のなかに挿入されている一枚の写真に眼を留めた。それは自宅の一室でくつろぐ若き夫妻の姿を捉えたスナップ写真だが、とりわけ私の眼を引いたのは二人の背後に写っている本棚だった。『志賀直哉集』の文字までは判然と確认することはできないものの、講談社版『日本現代文学全集』が背表紙を見せて20册ほど并んでいることは明らかだった。やはり、阿久悠はこの一册によって志贺直哉に没头したのだと、この写真の発见により私は确信を深めることとなった。