暗网禁区

Go Forward

昔 お茶の水に明治高校?中学があった 词髙桥一夫さんへ捧ぐ词(キャンパス編)

 2022.10
昔 お茶の水に明治高校?中学があった
词髙桥一夫さんへ捧ぐ词

明治大学史资料センター運営委員
福冈英朗(法学部事务长)

 今、法学部の事務室で、学生や教員とワイワイやりながら働いているのは、とても楽しい。法学部は、法曹養成に力を入れているので、明治大学法制研究所へご挨拶に行きたいと思い、その事務局、国家试験指导センター事務室のある猿楽町校舎へ伺うこととした。
 明治大学猿楽町校舎は、基本的には大学と同じお茶の水?神保町エリア内にあるのだが、どこの校舎とも隣り合わせとなっておらず、大学の喧騒とはどことなく空気感が违う。以前、と言っても10年ほど前まで、ここには明治大学付属明治高等学校?中学校があったということも、大学とはまた违う雰囲気を醸し出している原因かもしれない。
 主に中学校クラスがあった3号馆から入ってみると、そこに法制研究所は无く、そのまま渡り廊下を通って、2号馆の守卫所で聴いてみる。目的の场所は1号馆(以前の高校クラス)にあると聴き、そのまま4阶の连络通路を渡って1号馆へ。1号馆へ入ると、廊下の窓が开け放たれており、中庭の池(水はもう无い)が目に入って来た。
 
 そこまで来て、突然ズワワっと、20年以上前の记忆、自分がこの场所で仕事をしていた记忆が、全身へ降って来た。ズワワっと。施设职(いわゆる用务员)の髙桥さんが、池の扫除をしながら「ここはクチボソしか居ないなあ」と言っていたこと(クチボソって何だ?)、中庭に作られたスズメバチの巣を駆除したこと(巣が无くなると戻って来たハチ达が混乱して人を刺す、と駆除业者から教えられて事前に近所へご挨拶しに行った)、昼休みに清扫の方々の畳敷き控室でお茶菓子食べながらおしゃべりしていたこと、等々。
 歳をとってくると、人の记忆というものは不思议なものだな、と思う。この猿楽町校舎に入って3号馆?2号馆?1号馆と歩いて来て、1号馆中庭へ来た途端、突然、デスノートで记忆を取り戻した时のキラのように、いきなり大量の记忆がよみがえって来たのだ。
 1号馆地下には仓库があり、もしバイオハザードの世界観であれば、强めのゾンビが居そうな雰囲気の场所だった。そこには昔の付属八丈岛高校(ネットで検索すると出て来ます)から引き継がれた卒业生名簿があったり、まあ、高校?中学の全ての歴史が保管されていた。先辈の远藤さんから「ほら」と、「墨で书かれた资料は虫よけにもなるから、古くても纸がしっかりとしてるでしょ。」と教えてもらったことを覚えている。确かに戦前の墨汁で书かれた名簿のほうが、戦后の、万年笔で手书き(万年笔というのも相当すごいが)された名簿よりもしっかりとした纸质をキープしていた。虫と言えば、仓库から戻ると、よく头が痒くなっていたことも思い出す。きっと、古い书类に小さい虫が居たのだろう。少年サンデー创刊号表纸の子供が明治高校出身という噂によって、テレビ取材が入った时にも仓库へ名簿を探しに行ったし、村上春树风の表现で言えば、训练された犬のように、1号馆地下のどこに何の书类があるのかはすぐわかるようになった。今、あの资料たちは、调布キャンパスにあるのだろうか。
 自分が明治高等学校?中学校事务室へ异动して来てしばらく経った顷、山田先生が「职员は皆、若い时にこの事务室へ配属されたほうが良いんだ」と言っていたことを思い出す。确かに、70以上も细分化された部署がある大学と比较して、一つの事务室で一つの学校を运営するという経験、受験生(小学生や中学生)から始まり、新入生から卒业生まで、全てを见ることができる部署は他には无い。吹奏楽部のサックス奏者が、プロになるために退学すると、わざわざ窓口へ挨拶に来てくれる、なんてこともあった。学部1~4年に加えて、大学院生も居る生田キャンパスや中野キャンパス(自分は二つとも、その后に経験した)もあるが、一人の担当者が関わることができる职种が圧倒的に多かったのが、当时の明治高等学校?中学校事务室だった。
 
 イベント(卒业式含む)ごとに体育馆で、パイプ椅子を数百脚并べた。生徒达(特にバスケやバレー部)が协力してくれて、一绪に作业してくれたことがほんとうに助かった。途中から、自分が一绪に作业するよりも、指示へ回ったほうが、全体が早く终わることに気付いた。図面を作って、それに沿って基本となる位置决めをして、生徒达へ指示して、効率的で早い并べ方を考えた。椅子は前方のステージ下に収纳されていたので、列の后方から并べ始めるほうが早いことも発见した。もし「日本椅子并べ选手権」とかがあったら、明治高校のバスケ部やバレー部は全国优胜していたと思う。
 猿楽町のグランドは大きくないので、体育祭は调布にあった高校硬式野球部グランドで行なった。体育祭当日、音响设备が壊れて音が出なくなった时があった。「运动がメインですから叠骋惭なんて、别に无くても良いですよね?」と言ったら、石崎校长が「やっぱり、音楽が无いと寂しいなあ」と寂しそうに言った。「音楽无いと寂しいですかあ、、」と、髙桥さんと二人で軽トラに乗って、自宅から自分のステレオをグランドまで运んで来て、大音量で音楽を鸣らしたこともあった(100ワット位あったはずだがスピーカーが二つだけだと、屋外では意外に音は小さかった)。
 定期试験中は生徒が部活をしないで帰るので、空いた校庭で并木先生达とテニスをやったものだ。よく考えたら、自分の人生、あの时が最后のテニスだった。
 「明高中の敷地内で、猫へ饵をあげている人がいる」という苦情が近隣から入り、あげている人物は近所の编集长ということがわかり、その职场へ访ねて行った。「猫を大切に思う気持ちはわかります。野良猫なら余计にそうかもしれないですね。饵付けすること自体が良いかどうかはわからないが、守りたいという贵女の気持ちは素晴らしいと思います。それは否定しません。しかし、それを、うちの敷地でやるのは止めてもらえませんか?うちに苦情が来てしまうので。やるのであれば、自分のビルの敷地でやってもらえませんか。」とお伝えしたところ、「あなたはわかっていない。间违っている。」と言われて引き下がって来たことがある。自分では间违っていないと思ったので、その后、猫好きの友达へ确认してみると「それは福冈くんが间违っているよ」とのことだった。いろいろな社会情势の変化の中、当时も今も、まだ微妙に消化できていない自分も居る。
 何の球技だったか忘れてしまったが、とにかく隣のマンション屋上へは、よくボールが飞んでいった。その都度取りに行くのだが、マンションの管理人さんは机嫌に幅のある人という噂も有り、毎回恐る恐る寻ねていった(大抵、优しく返してくれた)。
 清扫で働いていた、割と年配の高野さんが呑みに连れていってくれた先が浅草だった。そして、别のシチュエーションで、僕の上司が连れて行ってくれた场所も浅草だった。まったく别々の浅草访问だったが、二人とも「オレは浅草のことはよく知っている」と同じことを言っていたのが兴味深かった。おそらく1940年顷の生まれくらいの方々にとっての游び场が浅草だったのだろうか?その后、世代别知ってるぞ自慢が、新宿、六本木、渋谷、下北沢等へ移っていったのかもしれない。今の私も、若い人から「あの世代の人って、〇〇ってよく言うよね」なんて言われていることだろう。ちなみに、私の自慢场所は神保町である、「どこの喫茶店行きたい?」。
 
 もうそろそろ、世间的にも、ノスタルジック遗产として注目されそうな、古びて来た校舎。私が过ごしていた时も古かったが、今ではもっと古く见える。実家を离れてから见る亲の颜のようなものであろうか。
 私のこの场所での思い出は、卒业生や先生方とは、少し违う部类の思い出だろうと思う。事务や用务员、清扫员の立场から中学や高校を见ていたことが、今、この歳になってこれほど人生に思い出として强く残るものなのだなあ、としみじみ感じる。
 
 何年か振りで来た、今では猿楽町校舎と呼ばれている、以前の明治大学付属明治高等学校?中学校の校舎を歩きながら、ここで働くことができたことの希少さ、楽しさを改めて噛みしめた。
                                    おわり&苍产蝉辫;