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白寛洙(ペッ クァンス、1889~1961年)(留学生編)

白寛洙(ペッ クァンス)

2022.10 
东亜日报社社长、韩国民主党総务、制宪国会议员、
初代法制司法委员长を歴任した教育者、言论人、独立运动家、政治家
白寛洙(ペッ クァンス、1889~1961年)
 
明治大学史资料センター運営委員
李 英美(商学部教授)
                                   
 朝鮮半島湖南地方(南西部)の全羅北道高敞郡で1889年1月28日に、父?白道鎭と母?高旺林の間で生まれた。号は芹村(クンチョン)。5歳に朝鮮最後の巨儒と呼ばれる性理学者の田遇(1891~1922年。号は艮齋)のもとで漢学を勉強した(本学出身の金炳魯も同じ師匠)。1904年、13歳の時にそこで一生の交友となる金性洙(1891~1955年。号は仁村、東亜日報社の創設者、早稲田大学留学)に出会った。翌1905年には、第2次日韓協約(日韓保護条約)に反対して殉国の自決をはかった従妹の兄?白麟洙(1856~1910年。号は甲雲)のことを知った。1907年、16歳の時には本学出身の宋鎭禹(1890~1945年。号は古下、1915年法科卒業)とも出会って、白?金?宋の3人は長城郡の白羊寺清流庵で修業しながら国を取り巻く国際情勢と国の運命を語った。翌1908年には師匠韓承履(1876~1946年。号は玉樵)に出会い、新学問を勉強すべく、3人は共に群山の金湖学校に入って物理、数学、英語などを学んだあと、1910年に卒業した。卒業後、金と宋は日本留学に発ったが、白は親の勧めで京城法学専門学校に入り、1915年に卒業した。その後はYMCAに入り、民族指導者の李商在(1851 ~1927年。号は月南)の信頼を得て愛国啓蒙運動と社会奉仕活動に積極的に参加した。また、この間、日本留学を終えて前年に帰国した金性洙が、その年の4月に買収した中央学校で教鞭をとった。そして、28歳という晩学でありながら、1917年に日本に渡り、正則英語学校で学んだ後、翌1918年には明治大学法科に入学した。1919年1月に東京で朝鮮青年独立団を组织して団長になった。同年2月8日には、朝鮮で起きた全国的な3?1万歳運動の起爆剤となった2?8独立宣言の発表の際に、学生代表11人のひとりとして参加して宣言文を朗読したため、逮捕されて懲役9ヶ月を服役した。その時、重刑を課す内乱罪ではなく、比較的に軽い出版法違反罪が適用されたのは、花井卓蔵、鵜沢総明(本学総長、明治中学校初代校長)、布施辰治(1902年本学法学部卒業。2004年に日本人初の大韓民国建国勲章授与)、今井嘉幸など当時法曹界の錚々たる弁護士たちが無料弁護を行っていたからである。また、彼らを擁護?支援する論陣を張った東京帝国大学教授の吉野作造の存在も大きかった。
 1920年3月に出狱したあと、1921年に本学を卒业して帰国し、1923年には朝鲜物产奨励会の10人の発起人のひとりになると共に、翌1924年には朝鲜日报へ入社して常务になった。1927年には米国ハワイにおいて、世界基督教青年连合会の主催で开催された第2回太平洋会议に朝鲜代表として参加し、また同年2月に结成された左右合作の民族唯一党を目指した新干会にも参加した。翌1928年には朝鲜日报主笔の安在鸿の笔祸事件に関係し、朝鲜日报を追われることになった。1929年には京都で开催された第3回太平洋会议に参加し、また1932年には弘文社を设立して月刊誌『东邦评论』を刊行するなど活动していた。1937年には上记金性洙が设立した东亜日报に、前年の「日章旗抹消事件」で社长の座を追われた本学出身の上记宋鎭禹のあとを継いで、第7代目の社长に就任した。1940年に朝鲜総督府が东亜日报の强制廃刊を决めた际には、抵抗して「廃刊届」に判子を押さなかったために逮捕され、钟路警察署に1ヶ月间拘禁された。それ以后は故郷の高敞に降りて隠遁生活に入り、一切の活动を中止した。
 1945年の光復(独立。以下同)の后は、「建国準备委员会」の委员长であった吕运享(1886~1947年。号は梦阳、中道左派の民族运动家)から参加を呼びかけられたが、断った。そして、本学出身の李仁(1896~1979年。号は爱山、初代法务部长官、1918年法科卒业)らと共に朝鲜民族党を発起し、同年9月に创党された韩国民主党に合流して同党の総务になった。1946年には米军政庁下で南朝鲜大韩民国代表民主议员、南朝鲜过渡立法议员を务めた。また同年には金莲俊(1914~2008年。のちに女婿となる)によって汉阳大学理事に迎えられた。1947年4月に大韩民国政府树立が决まると、同年5月に制宪国会议员(初代国会议员)に当选して政界入りし、同6月には初代法制司法委员长、宪法起草委员、政府组织法起草委员となって、同年8月の大韩民国政府树立を迎えた。新生大韩民国の国家大纲を树立する上で重要な役割を果たした。1950年5月には第2代国会议员に出马して落选していたのだが、同6月に朝鲜戦争が勃発すると、ソウルからの避难に遅れていたために北朝鲜军によって同10月に拉北された。その后、北朝鲜平安北道宣川郡で1961年10月21日に病死したと伝えられる。2人の息子と1人の娘(白京栒。1926年生)がいるが、女婿の金莲俊は汉阳大学の创立者で、学校法人汉阳学院初代理事长、汉阳証券初代会长、プレジデントホテル初代会长である。现在は孙の金钟亮(1950年~现在)が汉阳大学総长を経て汉阳学院理事长を务める。生家は现在、中农规模の南部地方民家として1997年に全罗北道记念物に指定され、またその近くには徳山祠という国家报勲処指定の顕忠施设があり、上记従妹の兄の白麟洙、本人、一族の白贞基(1896~1934年。号は鸥波、アナキスト)が祭られている。
                                  
【参考文献】
?ユンジェグン『芹村白寛洙—春の到来はどうしてこんなにも遅いのか』东亜日报社、1996年。
?ジョンチンソク『6?25戦争拉北』キパラン、2006年。