写真1:1906年喜佐方丸が故郷吉田港に接岸し、大歓迎を受けた。その時、母を船に呼び、その時の感激を『沈みつ浮きつ』(山下亀三郎 1951年 四季社)で語っている。 (http://dayzi.com/a-izinyamasita.html より転載)
写真2:山下亀叁郎と长男太郎(1920年9月ニューヨークにて撮影、爱媛県立宇和高校叁瓶分校所蔵)
2023.2
「船成金」と呼ばれた海運王山下亀三郎-その1. 教育への眼差し-
明治大学史资料センター研究調査員
白戸伸一
山下亀叁郎(1867-1944)は、第一次大戦期に「船成金」となった海运业者としてよく知られているが、大戦ブーム后の没落という世间の予想と异なり、その后も事业を継続して第二次大戦后も山下新日本汽船、ナビックスライン、商船叁井へと事业は継承されている。今回は、実业家山下の事绩概観と教育事业との関わりに注目してその人物像を探ってみる。
山下は、1867年南予の吉田藩内(宇和郡河内村、のち喜佐方村、现?爱媛県宇和岛市)の庄屋の7人兄弟の末っ子として诞生、旧制南予中学校を中退して15歳の时に出奔、その时母には伟くなって大手を振って村の道が歩けるまで帰ってくれるなと宣告され、京都で小学校の代用教员をしたのち东京に出ると、一説によると同郷の穂积陈重东京大学教授に西园寺公望が校长だった明治法律学校入学を勧められ、1885年に入学するものの判検事登用试験に受からず中退してしまう。その后、やはり同郷の村井保固(森村组)の绍介で洋纸会社で働くが続かず、やがて石炭取引会社に勤め、1897年には自らも石炭商会を立ち上げる。取引を通じて、积荷引渡し前に运赁を受け取る海运业の有利性を知る。そのようなおり、亲戚の古谷久纲(伊藤博文の秘书官)の绍介で知遇を得たあの秋山真之(当时は海军大尉、のちに日露戦争でバルチック舰队撃破に贡献、海军中将)より、戦争が近いので借金してでも船を购入することを勧められ、福泽桃介(福沢諭吉の娘婿、电力事业等を展开)の情报により借金して中古船を购入、1903年12月、この喜佐方丸(故郷の村名を使用)が政府の「御用船」となることで确実な利益を入手する。このことが海运事业を広げる契机となった。
日露戦后の不况で打撃を被るが第一次大戦期には海运や船舶売买等で莫大な利益を上げ、内田信也、胜田银次郎とともに第一次大戦期の代表的「船成金」となり、所有船籍数では日本邮船や叁井物产船舶部などに劣るが、运用トン数では凌驾するほどの势力となった。1917年には资本金1000万円で本业の海运事业を担う山下汽船株式会社を设立し、同年には伞下事业の统括组织として山下合名会社を设立して事业の多角化を推进した。1918年には主に石炭を扱う山下鉱业株式会社设立、1922年には中国の大连に山下汽船合资会社を设立、1929年には港湾整备事业を担う阪神筑港株式会社を设立している。
海运事业が急速に缩小した第一次大戦后に経営破绽に至らず、のちにますます事业を拡大することができたのは、船舶売买等の投机的利益のみに頼らず、むしろ多数の一般船主の船を佣船するオペレーター(船舶运航业者)として事业の伸缩に対応する経営スタイルを採用していたからである。そのため、アジア?太平洋戦争が本格化してくる1940年には社有?準社有船54隻?载货重量46万トン、佣船?受託船59隻?同42万トン、计113隻?同88万トンを运航しており、事业规模は第一次大戦期をはるかに凌驾していた。
ところで、山下は私的利益のみを追求する実业家ではなかった。それを象徴しているのが故郷に女学校を二つも设立していることである。郷土爱も深く毎年帰省しているばかりか、地域の発展のためのインフラ整备に多くの寄付をおこなっている。1906年には体が不自由となった母を喜ばせようとして自社船の第二喜佐方丸で故郷の吉田港に帰り、町民にも船を披露している(写真参照)。そして1917年には出身地の吉田町に山下実科高等女学校(现爱媛県立吉田高校)を、1920年には母の郷里の叁瓶村に第二山下実科高等女学校(现爱媛県立宇和高校叁瓶分校)を开设している。なぜ女学校なのか?山下の脳里には「勉强すべき时に勉强しなかった」という后悔とともに、厳しくも慈爱に満ちた母への思慕があり、教育の要となる贤母を育てる场として「母を作る女学校」设置を重视した。実母敬子を「校母」としてこれらの学校教育に位置づけ、教育の场でも生徒を农作业に従事させた。
「遗言之事」(1942年12月に作成)という书面が宇和高校叁瓶分校に保存されている。そこには家族への遗言として同族の构成や事业の継承とともに、郷里に设立した女学校についても书かれていた。すなわち、「山下高等女学校及第二山下高等女学校は自分郷土に於ける唯一の记念事业なるが故に、太郎(写真2参照)以下の子孙は必ず自分の生前に奉するの意思を以て此両校の存立を计る可し」とされており、同地における自らの墓所?墓标に関する祭礼の管理もこれらの学校に委ねていた。
さらに、上记の吉田高校「吉田叁杰资料室」には『桐朋中?高等学校五十年史 桐朋五十年史年表』が保存されている。これらの学校の出発点には、1940年に山下が军人?军属子女の教育のため1000万円を寄付したことで、财団法人山水育英会が设立され、东京の国立に第一、大阪の寝屋川に第二山水、仙川に山水高等女学校が开设され、戦后にそれらを継承して桐朋学园が开设され、小泽征尔のような着名な指挥者がそこから巣立っている。
今回は、実业家山下亀叁郎の事业内容や交友関係にあまり触れてないが、彼が倾けた教育への热意が郷里や东京で受け継がれ、今日に至る多様な人材の辈出に繋がっていることに触れた。四国の辺境の农村から志を立てて东京に出て学び、浮沉を繰り返しながら実业家として成功しても故郷を気にかけ、女子教育に注力した。県立宇和高校叁瓶分校が2024年度をもって闭校と闻く。过疎化の波がこのような形で现れるのは诚に残念ではあるが、関係者の记忆に山下の足跡が长く留められることを祈るばかりである。
付记
2022年12月に、山下亀叁郎の调査のため県立宇和高校叁瓶分校、県立吉田高校、西予市先哲记念馆を访问し、瀧本久美子分校长、井原进一吉田高校教头、泉仁美先哲记念馆职员の诸氏には资料閲覧の便宜や贵重な情报を提供していただいた。この场を借りてお礼を申し上げます。