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叁渊嘉子(みぶちよしこ)—狈贬碍の连続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官—(法曹编)





 2023.3
叁渊嘉子(みぶちよしこ)—狈贬碍の连続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官—
 
明治大学史资料センター所長
村上一博(法学部教授)
 
 去る2月22日、来たる2024(令和6)年4月から放送が始まる狈贬碍连続テレビ小説(いわゆる朝ドラ)の主人公のモデルとして、本学女子部出身で、女性として初めて弁护士?判事?裁判所所长となった《叁渊嘉子》を採用することに决定したと报じられた(ドラマの名称は「虎に翼」、主演女优は伊藤沙莉さん)。叁渊嘉子とは、どのような人物なのか。その人となりを简単に绍介しよう。
   ☆   ☆   ☆   ☆
 叁渊(旧姓武藤)嘉子は、1914(大正3)年11月13日、台湾银行に勤务していた武藤贞雄(旧姓宫武、明治19年生まれ、丸亀中学から一高を経て东京帝大卒)の长女として、シンガポールに生まれた。その后父亲は、ニューヨーク勤务を経て、1920(大正9)年に帰国(その间、嘉子らは丸亀で生活した)、一家は揃って东京渋谷区に住まいした。父亲は、当时としては男女に分け隔てのない非常に民主的な考えを持ち、幼い嘉子に「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな、男と同じやうに政治でも、経済でも理解できるようになれ、それには何か専门の仕事をもつ為の勉强をしなさい。医者になるか弁护士はどうか」と语っていたという。いわゆる良妻贤母ではなく、职业妇人として自立する女性となるよう諭していたのである。
 嘉子は、东京府青山师范学校附属小学校から、1932(昭和7)年3月に东京女子师范学校附属高等女学校(お茶の水女子大学付属高等学校の前身)を卒业した后、法律を勉强しようと决意した。
 ちょうどこの顷、1933(昭和8)年5月の弁护士法改正(法律第53号、昭和11年4月施行)によって、それまで弁护士资格について「日本臣民ニシテ???成年以上ノ男子タルコト」(第2条第一)とされていた规定が、「帝国臣民ニシテ成年者タルコト」と改められたことで、女性も弁护士となることが认められた。もっとも、弁护士になるには、高等试験令による司法科试験に合格し、その后1年半弁护士试补として修习を受ける必要があり、司法科试験を受けるには、高等学校または文部省が特に指定した専门学校の卒业生あるいは大学の学部在学中か卒业生でなければならなかった(ただし予备试験に合格すれば学歴は不要であった)。女子専门学校で文部省から指定を受けた学校は皆无であったから、大学学部在学中か卒业生になる以外に道はなかった。しかし、当时女性に门戸を开いていた大学は九州帝大?东北帝大など、ごく仅かしかなく、それも理系学部が中心であった。前述の弁护士法改正を见越して1929(昭和4)年に创设された明治大学専门部女子部法科(3年制)が、唯一、その卒业生に対して明治大学法学部への编入を认めており、女性が弁护士を目指して法律を学べる学校だったのである。
 嘉子は、女学校卒业后、1932(昭和7)年4月、第4期生として明治大学専门部女子部法科に入学した(入学する际、母亲のノブは法律等を勉强しては嫁の貰い手がなくなると泣きながら猛反対したという)。1935(昭和10)年3月に卒业した后、さらに明治大学法学部に编入、1938(昭和13)年3月に卒业した(卒业式で総代を务めた由)。当时の勉学の様子については、

小学校卒业以来异性とは全く交渉のない当时の学生にとっては、お互いに関心はあっても口を利く勇気はなく、女子学生は常に教室の前の方に集団で席を取って授业を受け、授业外でも女子だけで行动する有様で、やはり女子学生は男子学生の勉学の场を拝借させて顶いているという感じだった。しかし???成绩に関しては本家の男子学生を凌ぐものがあり、当时の明大の男子学生にとって女子学生の存在は竞争刺激剤としての存在意义があったのではなかろうか。

と语っている。
 嘉子が卒业した年の11月1日、司法省は、嘉子および同级の中田正子、そして1学年下の久米爱の3人の女性が、高等文官试験司法科に合格したと発表した(合格者総数242名)。女性初の快挙であった。『东京朝日新闻』(第18884号、11月2日)は第二面で「法服を彩る红叁点、女性の法律问题は女性が—、弁护士试験?初の栄冠」と3人を称賛し、『法律新闻』(第4339号、11月8日)は、第一面に「女弁护士登场」として、3人の写真と谈话を掲载した。嘉子はインタビューに応えて言う。

之から先の方针も未だ决まって居りません状态です。仮令若し弁护士になるに致しましても职业として立って行くと云ふよりは、只管不幸な方々の御相谈相手として少しでも御力になりたいと思って居ります。それには余りにも世间知らずの无力な、空虚な自分を感じます。晩成を期して、学问の上でも、社会の事に就いてももっともっと勉强し、経験を积んでその上での事でございます。そこ迄自分がやって行けますか何うか??????。只私の望みは仮令何の道を歩むに致しましても夫々の道に応じて、世の為、人の為、自己の最善を尽したいと思ふのみでございます。

 嘉子も他の2人も、男女差别の时代风潮に配虑しながら、あくまでも谦虚に、女性のための弁护士、不幸な人々の相谈相手という点を强调したコメントを残している。
 その后、第二东京弁护士会での1年半の弁护士试补の修习を终え、1940(昭和15)年6月弁护士登録(第二东京弁护士会所属)した。女性弁护士がいよいよ诞生したのである。もっとも、第二次世界大戦に突入した1941(昭和16)年になると、民事事件の数は大きく减少して、弁护士としての活动はほとんどできなかったようであり、嘉子は、1940(昭和15)年7月から母校である女子部法科の助手、1944(昭和19)年8月には同助教授となって、后进の指导に当たった。
 私生活では、翌1941(昭和16)年11月5日に、実家に书生として出入りしていた和田芳夫(明大卒)と结婚、1943(昭和18)年1月には第一子芳武が诞生したが、芳夫は1年半后の1944(昭和19)年6月に召集されてしまい、嘉子は、幼い息子を抱えながら、空袭で家を焼かれて逃げ惑い、さらに福岛へ疎开するなど、苦しい生活を强いられた。
 终戦后、1946(昭和21)年5月23日、芳夫が上海から引扬途中に长崎で病死したことから、嘉子は、経済的自立について熟虑したすえ、男女平等の世の中になったのだから女性も司法官に採用されてしかるべきだと考えて、1947(昭和22)年3月裁判官採用愿を司法省に提出した(それまで女性は司法官のみならず官吏に採用されたことはなかったが、弁护士のように、男性に限るとする明确な规定は存在しなかった)。しかし、裁判官としての採用は许されず、坂野千里东京控诉院长から、裁判官としての仕事を学ぶため暂くの间司法省に入って勉强するよう勧められ、6月司法省民事部に入った。はじめ民法调査室に所属して、民法?家事审判法の立法作业に、最高裁発足后は、事务局民事部第叁课(→家庭局)で亲族法?相続法?家事审判所の问题などに携わった。

戦前の民法の讲义を聴いたときは、法律上の女性の地位があまりにも惨めなもので、じだんだを踏んでくやしがりました。それだけに、何の努力もしないで、新しくすばらしい民法ができることは梦のようでした。また、一方「あまりにも男女が平等であるために、女性にとって厳しい自覚と责任が要求されるだろう。はたして、现実の日本の女性が、それにこたえられるだろうか」と、おそれにも似た気持ちをもったものです(『妇人法律家协会会报』17号)。

と、当时を振り返りながらも、职场はリベラルな人が多く、仕事の上で「女性であるために不愉快な思いをしたことは、一度もありませんでした。むしろ皆さんに可爱がって顶き一生悬命に教育して下さいました」と感谢の言叶を记している。同年11月には、明治女子専门学校教授にも就任した。
 ようやく、2年后、1949(昭和24)年6月东京地裁民事部の判事补に任用された。女性の裁判官としては2番目の採用であった。女性裁判官第1号と検察官第1号は、同年4月に採用された石渡満子(明治大学専门部女子部?法学部出身)と门上千恵子(九州帝大法文学部出身)で、ともに戦后に司法研修所で司法修习生として初めて男性と一绪に修习を受けた女性たちであった。
 嘉子は、同年5月から约6ヶ月にわたり、アメリカで家庭裁判所を视察、帰国后、1952(昭和27)年12月名古屋地裁に転じ、初の女性判事となった。次いで、东京地裁?同家裁に移り、民事裁判?少年审判を担当した。「私は男女が差别される时代に育ったせいか、建前论を主张するよりは女性が実绩を上げて社会を纳得させることが大切だ」と考えて执务に励んだと言う。
 1956(昭和31)年8月、最高裁调査官であった叁渊乾太郎(明治39年生まれ、のち浦和地裁所长、初代最高裁长官叁渊忠彦の长男、前妻を病気で亡くし1男3女の子持ちであった)と再婚した。なお、この间、1951(昭和26)年4月明治大学短期大学兼任教授、1965(昭和40)年4月から1972(昭和47)年まで同兼任讲师を务めている。
 1972(昭和47)年6月新潟家裁所长に就任(女性として初の裁判所所长)、次いで浦和家裁所长(昭和48年11月~53年1月)?横浜家裁所长(昭和53年1月~)となり、1979(昭和54)年11月13日、定年退官した。横浜家裁の所长时代、薄汚れていた调停室の壁を明るい白に涂りかえ、壁に絵をかけ、カーテンを新调し、昼休みには廊下に静かな音楽を流した。家庭问题に深刻な悩みを抱えた人々の心を少しでも和ませようとの心遣いからであった。また、各地で精力的に讲演を出掛けたが、それは、少年事件や家事事件について一般社会に関心を持ってもらうためであり、特に少年问题は家裁に送られる前に家庭や社会が少年问题に理解をもって协力することが肝心であると考えたからに他ならない。「家裁は人间を取り扱うところで、事件を扱うところではない」「家裁の裁判官は、社会の中に入って行く必要がある」との信念からであった。
 退官の年に、法制审议会民法部会委员、日本妇人法律家协会会长を务め、退官后は、弁护士(第二东京弁护士会所属)を开业する傍ら、労働省男女平等问题専门家会议座长、东京家裁调停委员兼参与员、东京都人事委员会委员、労働省妇人少年问题审议会委员などの要职を歴任した。
 短期大学创立50周年记念讲演で、叁渊は、学生たちに静かに语りかけている。

(戦后に华々しく社会的活动を始めた女性たちのうちエリート意识が强い人たちがいるけれども)女子部の人たちはエリート意识を持ちませんでした。大学で法律や経済を学ぶこと自体、社会から白眼视されていたのですから、エリート意识は持てませんでした。自分に力をつけて、そして人间らしく生きていこうという気持ちが强く、职场でも地味に働いていました。私は、今でも皆様方にエリート意识など持って欲しくないのです。あなた方がどこに出ても一人前の人间として自立していくという、この明大の伝统を、これからも受け継いでいっていただければ本当にうれしいと思います。

 时代を切り拓き、悬命な努力を重ねてきた女性法曹の先駆者ならではの、强くかつしなやかな生き様が感じられる。
 1984(昭和59)年5月28日死去、享年69歳であった。6月23日に青山葬仪所で行われた葬仪と告别式には2千人近い人が访れて、别れを惜しんだ。
 
 なお、叁渊嘉子について、さらに详しく知りたい方は、次の文献を参照されたい。
(1) 叁渊嘉子「少年审判における裁判官の役割」『别册判例タイムズ』6号、1979年12月(のち、『追想のひと叁渊嘉子』所収)
(2) 三淵嘉子「婦人の解放と明大女子部の果した役割」『明治大学広報』106号、1980年 1月
(3)「叁渊嘉子氏に闻く—女性裁判官第一号—」『法学セミナー』1980年5月号
(4) 三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道—女性法曹の先達として—」三淵嘉子編著『女性法律家』有斐閣、1983年(のち、『追想のひと三淵嘉子』所収)
(5)『追想のひと叁渊嘉子』叁渊嘉子さん追想文集刊行会、1985年
(6) 佐賀千恵美著『女性法曹のあけぼの 華やぐ女たち』早稲田経営出版、1991年
(7) 加藤純子ほか編『自由と人権をもとめて—20世紀のすてきな女性たち7—』岩崎書店、2000年
(8) 山本祐司?五十嵐佳子著『女性弁護士物語—17人のしなやかな生き方—』日本評論社、2002年
(9) 大阪府男女共同参画推進財団編『Women Pioneers 女性先駆者たち』同財団、2011年
(10) 江刺昭子ほか編著『かながわの111人』第2集、神奈川新聞社、2011年
(11) 清永聡著『家庭裁判所物語』日本評論社、2018年
(12) 神野潔「女性法曹の誕生と三淵嘉子」『人権のひろば』24巻3号、2021年
(13) 山泉進「三淵嘉子」明治大学史资料センター編『白雲なびく遥かなる明大山脈②法曹編Ⅰ』DTP出版、2022年