明治大学野球部の试合の様子を写真入りで报じる『京城日报』の记事。(1931年8月19日)
2023.11
朝鲜半岛における野球部の活动(1)
明治大学史资料センター運営委員
山下达也(文学部教授)
明治大学の野球部といえば、东京六大学连盟の一员であり、明治期から活动する歴史ある存在である。しかし、その活动の中で、戦前におけるアジアでの活动についてはあまり知られていないのではないだろうか。
周知のとおり、1910~1945年、朝鲜半岛は日本の统治下にあったが、その间、明治大学の野球部は朝鲜で活动する野球チームと対戦を重ねている。
当时の新闻に大きく报じられ、その様子を窥うことができるいくつかの交流试合について绍介したい。纸幅の関係上、今回のコラムでは特に1930年前后の事例に注目することとする。
1929年5月25日付の朝鮮時報には、「明大野球軍釜山遠征 丗一日、一日両日試合を行ふ」という記事が掲載されている。そこには、「帝都大学チームの花形明治大学野球団一行十七名は満鮮遠征の途上来る三十一日朝入港 連絡船で釜山に上陸」とあり、5月31日に「釜山実業」と、6月1日に「釜山鉄道」の野球チームと対戦することについて報じられている。5月30日付の同紙では、「明大野球軍来る 丗一日、一日釜山で試合」との見出し記事にて続報を出しており、両試合が「釜山体育協会主催の下に挙行することに決定 全アジア期待の的となつてゐる」と伝えている。毎日申報の6月4日付の記事によれば、明治大学野球部は上記2試合に勝利し、その後、京城に移動、同月4日には「京電軍」、5日には「医専軍」と京城球場にて試合を行ったことが分かる。後の報道(京城日報1931年8月8日付)によって明らかになることだが、この朝鮮での交流試合に参加したのは、明治大学野球部の「留守軍」であり、「第一軍」はアメリカに遠征している。
その后、1929年と同様に明治大学野球部の「留守(新人)军」が来朝し、交流试合が行われることになったのは1931年のことである。同年8月8日付の京城日报「科学的野球に训练された其戦法 真面目なそのゲームを见よ 明大新人の来征迫る」という见出しの记事では、「一昨年の夏であつた。常时やはり第一军が米国に远征してその后押へをしてゐた明大留守军が京城に来征して第一军となんら见劣りのしないゲームを京城グラウンドに展开し実业连盟各チームを席巻し去つたことがある」と1929年の交流试合を振り返り、この度は、京城日报社主催で大々的に明治大学野球部招聘试合を行うことになった件を报じている。この时、京城日报社が招聘したのは、やはり明治大学野球部の「留守军」で新人主体のチームであったが、それを「中学时代から春の选抜野球に夏の全国大会に甲子园で中学生ばなれのプレイを见せて数万の観众をヤンヤいはせた者が揃つてゐる」と评し、朝鲜での热戦を期待する记事を掲载している。
この交流试合は、明治大学野球部が8月17日に朝鲜の2チームとそれぞれ対戦、18日に别の2チームと対戦、2日间で计4试合を行うというものであった。京城日报では、これを「一日二试合の快挙を见逃すな あす京城二军との明大新人招聘野球」との见出し记事にて、「明治四十四年、朝鲜に野球が移入されてから二十年『ダブルヘツド』といふ快记録をはじめて记す本社招聘明大新人の対京电ならびに対逓信戦はいよいよ明十七日午后二时から京城グラウンドで挙行されることになつた」と伝えている。また、同记事では、「半岛未曾有のこの挙に対し満都のフアンの人気集中は十六日中の前売切符の売行をもつても推察されてゐる」とその注目度の高さを报じている。试合を控えた明治大学の「新人军」の様子については、16日午后1时から游覧バスで府内各所を见物し、その足で4时から京城中学校グラウンドに赴き、练习に汗を流したことを报じ、「この元気!府内を游覧して后午后四时から猛练习」と伝えている。
それぞれの试合の结果及び戦况については、8月18?19日の京城日报にて写真付きで详细に报じられている。その内容からは明治大学野球部は2胜1败(18日第二试合は雨天中止のため3试合実施)の结果となったこと、スタンドを埋め尽くすほどの観众が来场したこと、试合开始前には明治大学の応援歌が响いたこと、当时の朝鲜総督?宇垣一成の息子と娘も観戦したことなどが分かる。また、野球部来访を受け、校友会京城支部が16日に歓迎会を开催し、参加者50名を超える盛会となったこと、同会では、「校友大挙して応援すること」、「京城にも骏台倶楽部チームを组织する」ことを申し合わせたと报じられている。
その后も1930年代には明治大学野球部と朝鲜で活动する野球チームとの交流が盛んに行われるが、その详细については别稿に譲ることにしたい。