圣桥から见た御茶ノ水駅(水道桥駅方面を临む、2023年10月4日に笔者が撮影)
圣桥から见た御茶ノ水駅(秋叶原駅方面を临む、2023年10月7日に笔者が撮影)
2023.11
御茶ノ水駅と阿久悠の青春
明治大学史资料センター運営委員?阿久悠記念館運営責任者
冨泽 成实(政治経済学部教授)
冨泽 成实(政治経済学部教授)
100年前の1923(大正12)年9月1日に発生した関东地震(マグニチュード7.9)により、明治大学骏河台キャンパスの最寄り駅のひとつである御茶ノ水駅は、一部が焼失した。だが、むろんこれは现在の駅舎についてのことではない。そもそも御茶ノ水駅は1904(明治37)年12月31日、私鉄の甲武鉄道が八王子を起终点とする线路を万世桥まで延伸する目的で、饭田町?御茶ノ水间を开业する际に诞生した。この駅舎は现在とは异なり、御茶ノ水桥の西侧に位置していた。被害を受けたのはこの初代の駅舎であった。その后応急復旧されて使用されたが、総武线が御茶ノ水駅まで延伸するのに合わせて、1932(昭和7)年に御茶ノ水桥と圣桥の间に新设された。この二代目の駅舎が现在の闯搁中央线?総武线御茶ノ水駅である(交建设计?駅研グループ『駅のはなし—明治から平成まで—』成山堂书店、1997?1を参照)。
ところで、「ぼくが通っていた大学は神田骏河台にあって、御茶ノ水駅で乗降していた」(『爱すべき名歌たち』岩波新书、1999?7)と回想的に述べたように、作词家?阿久悠(1937~2007)は、明治大学への通学に御茶ノ水駅を利用していた。彼が在学したのは1955(昭和30)年4月から1959(昭和34)年3月までの4年间なので、使っていたのは2代目の駅舎である。彼にはこの御茶ノ水駅とその界隈の佇まいに深い思い入れがあったようだ。
お茶の水に集い、そして、别离を噛みしめながら去って行った友よ。あの顷は、たがいに贫しく、时に人生に絶望を感じることもあったが、心のどこかに剧的な灯をともしていたね。
圣桥から见たお茶の水駅(ママ)は、どこかにフランス映画の一シーンを思わせる诗情があり、ニコライ堂のシルエットも想い出の一コマに絶好だった。髪の长い少女の焦茶色のベレーが风に舞い、骏河台を駆けおりた光景は今でも鲜やかだ。
友よ。鲜やかでありたいね。お茶の水を想えばいつでも青春だ。
これは阿久悠のエッセイ集『なぜか売れなかったぼくの爱しい歌』(河出文库、2008?7)からの引用であるが、もともとは彼が作词を手掛けたレコード「お茶の水えれじい」(歌:ジュン=井上顺、作曲:大野克夫)のジャケットの表纸そのものを饰った文章だったという。とはいうものの、この楽曲の発売计画は中止となり、结局リリースされることはなかったということだが、公表を前提に阿久悠がこのように自分の过去を叙情的に回想するのは、めずらしいことなのではないだろうか。彼にとって御茶ノ水駅界隈で过ごした学生时代の青春は、特段构える必要もなく他者に真率に语ることのできる纯粋な経験として、彼の人生のなかで长く暖められていた贵重な记忆だったにちがいない。そしてこれは、経済的にも精神的にも不安定な学生生活を送りながらも、将来の飞跃を心の内に期しながらこの街を行き来する、かつての明大生の青春の様相を简明に活写した名文である、ということができるだろう。
明大生の阿久悠が圣桥の上から诗趣に富んだ风景として眺めた御茶ノ水駅はいま、大规模な工事の真っ最中であり、これから大きく変貌を遂げることになる。闯搁东日本によると、2013(平成25)年度からバリアフリー整备をはじめとする工事を进めているが、2023(令和5)年12月3日から人工地盘上に整备した、新たな圣桥口駅舎と改札口の使用を开始する。さらに2024年度中には、圣桥口にはこれまでなかった、駅前広场机能をもつ新たなスペースの使用を始める、という(闯搁东日本ニュース「中央线御茶ノ水駅 新しい圣桥口駅舎の使用开始について」2023年10月17日発行、)。これからの明大生は圣桥の上から新たな御茶ノ水駅をどのような眼で见つめ、そしてその青春の光景をどのように追想するのだろうか。
【付记】 本稿は、助成を受けた科学研究费补助金(令和4(2022)年度 基盘研究(颁)课题番号 22碍00496)による研究成果の一部である。