大学史资料センター企画の明治大学创立140周年记念事业?2021年度博物馆特别展「校友山脉─明治大学の教育と人材─」において庆太郎翁を绍介したパネル
多くの人で賑わう东京都美术馆前の広场、左侧は上野动物园(笔者撮影)
絵葉書 東京府美術館 正門前(東京都美術館所蔵)
佐藤新兴生活馆をルーツに87年の歴史を有する山の上ホテルの建物(大学会馆4阶?大学史资料センターから笔者撮影)
明大通り沿いにあるお茶の水スクエア础馆(笔者撮影)
ビルの谷间にあるニコライ堂(リバティタワー屋上から笔者撮影)
2024.3
东京都美术馆「生みの亲」?佐藤庆太郎にまつわる御茶ノ水名建筑
明治大学史资料センター運営委員
市川园子(学术?社会连携部博物馆事务长)
骏河台キャンパスから远くない上野恩赐公园の中、上野动物园で2017年6月に29年ぶりに生まれたジャイアントパンダのシャンシャンが5年8カ月暮らした东园パンダ舎から目と鼻の先に位置する东京都美术馆。「石炭の神様」と呼ばれた北九州出身の実业家?佐藤庆太郎からの、当时の金额で100万円の寄付によって1926年5月1日に日本初の公立美术馆?东京府美术馆として开馆した。古写真を见る限り、ヨーロッパ古典主义様式の建物は列柱を构えた堂々たる姿で「美の殿堂」と呼ぶにふさわしく、重厚な正面阶段を上がった先に入口があり、ドイツ?ベルリンの博物馆岛にある旧博物馆を彷彿させるものがある。1975年に现在のレンガ造りの新馆が开馆するまで约50年间、官展や美术団体、新闻社などによる展覧会の会场となり、日本の近现代美术の歴史とともに歩んできた。まもなく创立100周年を迎える美术馆の础を筑いた寄付者の佐藤庆太郎は、1890年に明治法律学校を卒业した人物である。
庆太郎翁は明治元年となる1868年に现在の北九州市に生まれ、その后福冈藩藩校に起源をもつ英语専修修猷馆に学ぶが中退し、青云の志をもって1887年から明治法律学校で法律の勉强に没头した。1890年に卒业するものの、在学中から病弱であったため代言人试験を断念し、不本意ながら帰郷する。
のちに妻となる俊子の义兄にあたる山本周太郎が経営する石炭商?山本商店を経て、1900年に独立して佐藤商店を设立。石炭の品质や採掘技术、流通等の研究に大変热心で、地元筑豊のどの炭鉱で採掘されたかを一目で言い当てることが出来るほどであった庆太郎翁は「石炭の神様」と呼ばれるようになった。日露戦争后の石炭需要急増を背景に、1908年には炭鉱経営にも乗り出し、事业を発展させた。
“The man who dies rich, dies disgraced.” 「金持ちのままで死ぬのは不名誉な死である」
鉄钢王アンドルー?カーネギーを尊敬していた庆太郎翁は50歳を过ぎてからは事业を整理し、慈善事业に取り组む。挥毫した书に残る「公私一如」は、自分の财产は社会からの预かりもの、世に返すのは当たり前、という庆太郎翁の信念を表している。1921年に东京府へ美术馆建设费用として寄付を申し出た100万円(现在の40亿円相当)は全财产の半分にあたる。1930年には前年创设の明治大学女子部建设费用6000円を寄付している。この女子部法科において、2024年度前期狈贬碍连続テレビ小説「虎に翼」で女优?伊藤沙莉演じる主人公?猪爪寅子のモデルである叁渊嘉子は学び、后に久米爱、中田正子とともに日本初の女性弁护士となる。
持病の胃肠病に苦しんだ庆太郎翁は食饵疗法により体调を回復させたことから、ユニークな文化福祉事业「新兴生活宣言」~健康のための生活改善と、それによる社会改良を目指す社会事业~の拠点とするために、1937年に「佐藤新兴生活馆」を建设し、西洋の生活様式、マナー等を女性に启蒙する施设として利用した。庆太郎翁は生活馆オープンから3年目の1940年に71歳で亡くなっている。この生活馆が研究栋に隣接する山の上ホテルである。アールデコ様式の建物は教会や学校建筑で知られる建筑家であり、メンソレータムで有名な近江兄弟社创业者でもあるウィリアム?メレル?ヴォーリズの设计による。大日本帝国海军徴用、连合国军最高司令官総司令部(骋贬蚕)接収を経て、1954年から山の上ホテルとして70年にわたり営业され、建物老朽化への対応検讨のため2024年2月から休馆となった。文豪に爱され、元祖美食の殿堂といえるこのホテルは、骏河台キャンパスで学んだ明大生にとって大きな憧れであった。
ヴォーリズ设计として东日本での代表作となる1925年竣工の旧主妇の友社ビルは、かつて叁代目记念馆前に建っていた。日本初の室内楽専用ホール?カザルスホール(2010年3月を最后に使用されていない)が入っているお茶の水スクエア础馆として、1987年に日本を代表するポストモダンの建筑家?磯崎新の设计により、低层部に旧主妇の友社ビルのファサード(外観)が復元され、高层部を付加して再开発された。近代建筑の再生保存の先駆的な例として名高い建物は、近くで见るとテコラッタの装饰の美しさに目を引かれる。明大通りを挟んでリバティタワー侧から眺めると、低层部と高层部の差に违和感は覚えるものの、御茶ノ水の见惯れた风景になっている。
最后になるが、古くからの御茶ノ水のランドマークで日本ハリストス正教会を代表する东京復活大圣堂、いわゆるニコライ堂は、东京国立博物馆の旧本馆や鹿鸣馆でも有名なジョサイア?コンドルが実施设计した日本最大のビザンチン様式の建物である。1891年に竣工されたが関东大震灾で被灾してドームを焼失し、庆太郎翁の寄付による东京都美术馆旧馆の设计者?冈田信一郎が修復にあたった。1962年には国の重要文化财に指定されている。高さ38mでかつては界隈で一番高かったが、今では近隣の再开発が进んでビルの谷间にひっそり潜んでいるかのようだ。
校友の皆様が母校を访问される际には、御茶ノ水周辺の歴史的な建筑物をお楽しみいただき、伟大なる先辈が础を筑いた上野の东京都美术馆にも足を延ばしていただきたい。
参考文献:
秋谷纪男『明治大学小史 人物编』佐藤庆太郎部分(学文社)
斉藤泰嘉『佐藤慶太郎伝: 東京府美術館を建てた石炭の神様』(石風社)
斉藤泰嘉「东京都美术馆生みの亲 佐藤庆太郎」(东京都美术馆)
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