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陈慎侯—早世した法科卒业生—(留学生编)

2024.6
陈慎侯—早世した法科卒业生—
 
明治大学史资料センター運営委員
叁田刚史(商学部教授)

 19世纪末以来の中国人留学生にとって、日本留学で得た知识や思想をどのように中国の现状に适用していくのかは、必然的な课题となった。辛亥革命と五四运动を経た1920年代の中国は军阀割拠の时代であり、北の北京では安徽派、直隶派、奉天派の各军阀が中华民国政府の主导権を争っていた。南の広东では1921年5月に孙文を中心とする中华民国正统政府が成立を宣言した。一方、1921年7月上海フランス租界で、コミンテルンの指导のもと中国共产党が结成された。军阀割拠、叁民主义を掲げる孙文の革命挫折、新势力共产党の诞生という时势下で、日本留学者や日本留学経験者が主に政治と経済について论阵を张った雑誌『孤军』は、1922年9月から1925年11月まで上海で発行されていた。この『孤军』创刊の中心人物が、元明治大学留学生の陈慎侯である(1)。
 同誌を発行した孤军雑誌社は上海の租界外である闸北宝通路顺泰里に置かれ、雑誌『孤军』は泰东図书局から出版されていた。『孤军』创刊号の発行年月は1922年9月となっており、のべ28号が刊行された。创刊の趣旨を「孤军宣言」として执笔し、『孤军』発刊の準备を进めた陈慎侯は、発刊直前の1922年8月8日病死していた。『孤军』创刊号では、巻头の「孤军宣言」の前に、陈慎侯の遗影を掲げ「陈慎侯先生事略」と「弔慎侯先生」を添えている。
 「陈慎侯先生事略」によれば、陈慎侯は、1885年生まれの福建省闽侯人で、名を承沢、字を慎侯といった。若くして挙人となり、日本に留学して法政と哲学を学び帰国した。帰国后は商务印书馆の编訳员となり、『东方雑誌』、『学芸雑誌』等の编集に従事した。また国文法の研究に力を注ぎ、『国文法草创』を着した。国の大事と文化の宣伝を自己の任务と心え、辛亥革命后は福建政务院秘书长や南京参议院の福建代表を务めたが辞职した。国事が日増しに困难となる现実を前に、同志を纠合して雑誌『孤军』を创刊しようとしたが、発刊直前に疲労から病を来たし妻子を残して38歳で没した。
 郭沫若は自伝『创造十年』の中で、陈慎侯と『孤军』発刊のいきさつについてこう记している。
 

「当时商务の编訳所には后に「孤军派」といわれた连中が集まって、政治的な刊行物を出そうとしていた。その首脳は陈(チェン)慎侯(シェンホウ)で、その外は大てい帝大出身の同窓であった。彼らの主张は最初は「约法」を中心として、「约法」を恢復することによって中国の大局を维持しようと主张していた。…… 僕は彼らの主张に対して、初めから少し懐疑的であった。だがその同人は大てい僕の学友で、しかも多くは政治経済を専门に研究している人々であり、とくにあの陈慎侯を、僕は非常に面白い人物だと思っていたから、僕は彼らに対して好意的中立をとっていた。……彼(引用者注—陈慎侯)の生活は非常に质素で、思想は社会主义的色彩を帯びており、明确に彼に评価を与えるとすれば、まず社会民主派といったところであろう。彼は法を尊重する人であった。彼は法をもって国家の机构を维持し、法の力によってさらに社会的改革を进めてゆき、将来の「大同」に达しようと考えていた。彼は个人主义に反対した。」(2)

 
 陳慎侯は、明治大学図书馆が架蔵する『中華留日明治大学校友録 民国十七年』(中華民国17年、中華明大校友会)に陳承沢の本名で卒業生として記されている。同書によると、陳承沢は民国紀元前3年(1909年)に明治大学法科を卒業している。
 陈慎侯は「孤军宣言」で読者に向かってこう述べた。
 

「あなた方は中华民国の主人であり、あなた方以外に谁が全国の政治を引き受けることが出来るというのか、あなた方は自分达を発展させなければならない!あなた方以外の特别な势力に対して宣戦しなければならない!あなた方は法治国の国民であり、あなた方の法を信じるべきである。具体的に根本法とは现行の临时约法のことである。」(和訳引用者)

 
陈慎侯は「孤军宣言」で、国内の军阀、官阀が中华民国の进歩発展にとって最大の障害あでると考え、まず「阀」を排除し法治国家を确立することを主张した。そして立宪主义と民主主义という中国近代化の道筋を示したのである。

(1)陈慎侯が元明治大学留学生であることについては、京都大学の故森时彦教授から教示を得た。
(2)郭沫若『创造十年?続创造十年』松枝茂夫訳、岩波文库、1960年、132~133页。