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明治大学に残る戦争遺跡(5): 日本高等拓植学校とヒマラヤ杉並木(キャンパス編)

【写真①】日本高等拓植学校本部?讲堂(1932年撮影) 【写真②】登戸研究所本部前ロータリーでの記念写真(1944年撮影) 中央の人物は、視察に来た三笠宮(当時:大本営参謀) 【写真③】明治大学図书馆時代の建物(1966年撮影)写真はいずれも明治大学平和教育登戸研究所資料館所蔵。

2024.9
明治大学に残る戦争遗跡(5):日本高等拓植学校とヒマラヤ杉并木
 
明治大学史资料センター運営委員
山田 朗(文学部教授)
 
 明治大学生田キャンパスは、旧日本陆军の登戸研究所(第九陆军技术研究所)の跡地に立地している。このことは、平和教育登戸研究所资料馆の存在もあり、现在ではかなり知られるようになった。だが、登戸研究所以前の歴史については、ほとんど知られていない。生田の地に电波兵器の実験施设として「陆军科学研究所登戸実験场」が设置されたのは1937(昭和12)年のことであったが、それ以前、生田の台地上には日本高等拓植学校というブラジル移民养成学校が存在した。
 日本高等拓植学校は、ブラジルのアマゾン地方を开拓する中坚移民を养成するための机関として1932年に开设された。中学校を卒业して入校した生徒たちはここで1年间の农业実习等の学习と训练を受けた上で、ブラジルへと旅立った。一般にブラジルへの移民というとコーヒー农园で働く労働者というイメージがあるが、この学校は、主としてコーヒー袋の原料となる麻(ジュート)を栽培する农业技术を授け、アマゾン地方の开拓に贡献するという目的を掲げていた。ところが、この学校が开设された1932年の前年には満州事変が起き、日本の国策は、ブラジル移民から満州移民へと変化していったため、次第にブラジル移民希望者は减少し、1937年に最后の卒业生を送り出した后、日本高等拓植学校は闭锁されることになった。これに目をつけた陆军は、拓植学校の土地?建物を买い上げ、そこに电波兵器(レーダー)の実験施设を置いた。「実験场」と呼ばれたその施设は、1939年に大拡张され「陆军科学研究所登戸出张所」と改称され、电波兵器?毒物?薬物?生物兵器?スパイ机材?偽札?偽パスポートなど秘密戦のための兵器?资材を开発する「登戸研究所」(陆军内での通称)となった。
 もともと日本高等拓植学校の本部?講堂であった建物【写真①】は、登戸研究所時代には研究所全体の本部として、慶應義塾大学時代もキャンパス本部として、明治大学になってからは図书馆等として使用され続け、1990年に解体された。同じ建物が、移民学校、軍事研究所、大学の中枢をなす建物として使われ続けたというのは、まさに日本近現代史の縮図のような建物であり、土地であったといえよう。
 【写真①】では、この拓植学校の本部?讲堂前に植えられている树木は细い頼りないものであるが、登戸研究所时代の【写真②】では、かなり大きなものとなり、明治大学时代(1960年代末)の【写真③】では、非常に背の高い并木になっていることがわかる。
 この8本のヒマラヤ杉并木と登戸研究所时代の本部前ロータリー跡は、生田キャンパスにおける新中央校舎(2025年3月竣工予定)建设のために2023年に伐採?撤去された。
 建设される新中央校舎の1阶フロアには、1930年代初めからこの地にあった建物?ロータリー?ヒマラヤ杉并木の记忆とその时代にあったことを継承するものとして、これらのジオラマとそれを解説するパネルが展示され、ヒマラヤ杉は憩いのスペースのテーブル?椅子に生まれ変わる。また、キャンパス内に第2代ヒマラヤ杉が植树される。また、平和教育登戸研究所资料馆では、在りし日のヒマラヤ杉并木のドローンによる空撮映像を见ることができる。