◎1881年 開校当初の明治法律学校(数寄屋橋キャンパス)想像図 ※ 開校時の写真は1枚も現存せず、創立70周年のときに想像図として作成させたもの
◎1886年 数寄屋橋から移転した初の自前の校舎である「南甲賀町校舎」 現 日本大学病院付近
◎ニコライ堂の建设现场から撮影された骏河台キャンパス校地の前身 旧小松宫彰仁亲王の邸宅『明治?大正?昭和 东京写真大集成』より引用
◎幻の初代記念館(創立30周年及び駿河台キャンパス移転記念) ※瓦斯暖炉からの失火により全焼 1911年(明治44年)10月~1912年(明治45年)3月
2024.10
あなたも知らない?明治法律学校の开校やその后のキャンパス移転に関するトリヴィア集
明治大学史资料センター運営委員
岩﨑 宏政 (调査役)
明大生を始め、校友の皆さんもご存じのとおり、明治大学は、その前身である明治法律学校の开校(1881年1月17日)以来、现在まで実に约143年という歴史を刻んでいる。その歴史の长さはもちろんのこと、创立者である岸本辰雄、宫城浩蔵、矢代 操の3先生の、明治维新により新たな时代を迎えた我が国における优秀な法曹の育成への热い思いを基にした明治法律学校での教育活动を出発点として、その后多くの后进の明大人によって、その活动が継承されており、换言すれば同校开校以来、现在までの一日一日のその営みの积み重ねのすべてが、明治大学の歴史そのものである。
思い起こせば今では笔者も、学生时代を含めると47年间という长きに亘り、明治大学の歴史の凡そ约叁分の一に関わってきた「明大人」の一人ともいえるのかもしれないが、学生时代には、创立者3先生の名前の苗字程度しか知らなかったと记忆している。実际には、母校の歴史や由来との関わりをもつようになった契机は、2015年に同センター运営委员を拝命したことである。
これに伴い、当时の学部间共通総合讲座「明治大学の歴史Ⅰ」という「自校史」の授业科目の运営に関わることになったのだが、歴史といっても、学术的な考察力や知见を有していた訳ではなかったので、明治大学との运命の糸を手繰り寄せて、明治大学を母校とする人生选択をしてくれた明大生にとって、少しでも母校爱醸成のきっかけになればという思いで、「明大トリヴィア」という视点で、后辈でもある明大生を始め、同じ明大人である校友の皆さんに伝承していくこととした。
このような経纬から、今回のコラムは、前身である明治法律学校及び明治大学の歴史や由来の中でも、自身もかつては知らなかったし、かつ、多くの明大人にもあまり知られていない开校时やその后の骏河台へのキャンパス移転に関わる「明大トリヴィア」をいくつかピックアップしてみたい。
1 明治法律学校の名前の由来は、元号【明治】ではなかった?
明治法律学校の名前の由来は?と问われたら、「开校时の元号が【明治】だったから」と思っている方が多いと思う。この答えは间违いではないが、正答とするには不十分である。
1880年12月8日に、「明治法律学校设立上申书」とともに东京府に提出された「明治法律学校设立の趣旨(趣意书)」によると、次のように记载されている。【现代语訳?抜粋】
「???同心协力して一つの学校を设立し、まさに一般の人々と协力して、大いに法の道理を讲究し、その眞諦(しんたい:究极の真実)を拡张しようと思っている。これを名付けて明治法律学校という。これは私的に圣徳の高い天皇に遭遇した喜びを表したもので???。」
よって校名の「明治」は、元号というよりは、徳の高い「明治天皇」の时代を生きる喜びを称えて付けられたものである。
2 明治大学の発祥の地(明治法律学校の开校地)は、开校直前までなかなか决まらなかった!
前述の「明治法律学校设立上申书」の段阶の开校地(予定)は、何と「东京府麹町区上六番町36番地(现 东京都千代田区叁番町16番地 东郷元帅记念公园の一角)の宫城浩蔵宅であった。これは、开校1か月前にも関わらず、正式な开校地が决定していなかったためであり、その后、交渉の结果、东京府への移転届の提出により、麹町区有楽町叁丁目一番地(现 千代田区有楽町2丁目2番地の北侧:ヒューリックスクエア东京付近)の数寄屋桥の「旧岛原藩上屋敷(松平忠和邸)」内の「叁楽舎跡」を校舎(数寄屋桥キャンパス)として借り受けて开校した。この开校地の决定交渉については、创立者のほかに、明治法律学校の开校に関わった「最初の学生兼事务职员」でもある斎藤孝治の尽力が大きく、东京府への开学届は、斎藤の氏名で提出されている。
因みに、この开校地については、开校后长い间特定に至ることがなかったが、创立114年を経过した1995年11月2日に、ようやく开校地付近に「明治大学発祥の地记念碑」 明治大学発祥の地 | 明治大学 (meiji.ac.jp) が建立された。(现在では、都心の有楽町でも一等地にある。)
また、島原藩主(松平忠和)は、第15代将軍 徳川慶喜の実弟であり、島原藩は、その家禄(15, 000石)に応じ、江戸に上屋敷(約4,000坪)と三田の中屋敷(約11,000坪)を拝領していた。
その后、1871年の「版籍奉还」によって、中屋敷は明治政府に献纳されたが、その后、庆応义塾の校地(叁田キャンパス)となっており、明治大学と庆应义塾大学との校地に関わる縁である。
3 明治法律学校は、なぜ「数寄屋桥キャンパス」を开设することになったのか?
(1) 旧岛原藩邸があった有楽町は江戸时代、「大名小路」と称されるほど大名屋敷が集中していたこともあり、所有者の一部は、明治政府からの接収を免れた屋敷で、赁料を取って「贷间业」を行っていた。
(2) 多くの学生を一堂に集めて授业を行うには、大広间のある武家屋敷は、格好の施设であった。
(3) 创立者を含めた创立时の讲师は、専任ではなく、日中は官庁を中心とした官庁や他校で别の仕事をもっていたため、有楽町は、司法省を始めとする官庁街に至近で都合がよかった。
(授业时间 7:30~8:30、15:30~16:30、18:00~19:00の3时限制)
(4) 居室の多い旧岛原藩邸を、教场としてだけでなく、地方出身者向けの寄宿舎として利用しようと考えていたと思われる。
4 「数寄屋桥キャンパス」からの移転を迫られた理由とは?(一部仮説)
明治法律学校が数寄屋桥の「旧岛原藩上屋敷(松平忠和邸)」内の「叁楽舎跡」に开校した当初は、仅か44名に过ぎなかった学生数は、1881年末には381名、1882年には406名、1883年には345名に急増したが、急ごしらえの校舎である「叁楽舎跡」は、当初から収容可能な人数を超过する状况になっており、学校の移転计画が喫紧の课题となった。
加えて、1884年11月に、东京府知事から、近代国家の首都に必要な整备计画の一部として、「新桥?上野间に线路を通し、最低2か所の停车场を新设し、交通及び货物运输の便利を増进させるべきである。」との※初の都市计画(东京府市区改正意见书)が発表された。
この计画の発表に伴い、旧岛原藩邸の敷地を横切る形で官営鉄道の延伸计画が策定されたことも外的な要因として影响し、松平家は、この敷地の一部あるいは全体を手放し、藩邸内の建物は一扫されたものと推测される。(実际に、数寄屋桥近辺に东京市街高架鉄道の新永间市街线が开通したのは1910年のため仮説とした。)
※1885年 内务省内に东京市区改正审议会を设置し同意见书の审议を始める。
1888年3月 同意见书に係る最终案议决
1894年7月 日清戦争开戦により、この计画の诸事业は中止?棚上げ
1896年 この計画に係る工事再開
1899年 用地买収开始するも日清戦争后の不景気、その后の日露戦争开戦により工事中断
1906年4月 日露戦争の终结に伴い工事再开
1910年9月 乌森駅(现 新桥駅)から有楽町駅を経て、呉服桥仮停车场まで开业
5 数寄屋桥からの移転先である「南甲贺町校舎」は、多くの教育机関の集积する「神田」にあった!
前述したような経纬もあり、明治法律学校は、创立者を中心とした个人的な「莫大な借金」の末、他の教育机関各校の集积する神田地区に、念愿の自前の校舎(校地は借地)を建筑して移転した。
◎南甲贺町校舎
? 移転先 東京府神田区駿河台南甲賀町11番地 校地約400坪 (現 日本大学病院付近)
? 竣工 1886年12月 ※ 12月11日に南甲賀町校舎移転開校式挙行(福沢諭吉も出席)
? 建設費 12,360圓(当時) ※ 当初予算5,000圓から大幅な建築費増を借金により捻出
? 校舎のほか学内に学生200名収容の寄宿舎 (神田界隈では唯一の施設で、地方出身者の受入に有利だったと推測される。)
? 設計者 岸本辰雄校長
6 创立30周年に合わせて、「南甲贺町校舎」から「骏河台校舎(现 骏河台キャンパス)への移転という「奇跡」が、明治大学発展の础となった!
初めて自前で建设された南甲贺町校舎は、移転初年度から、座席数が不足し、学生が立って授业を受けざるを得ないほどの盛况だった。学生数も前年より约600名も増加し、1,262名となったこともあり、この喫紧の课题に対応するため、竣工2年后の1888年には、早くも増筑工事に着工した。
このような状况の下に明治法律学校は、1903年8月25日、専门学校令に基づき、「明治大学」と改称した。(大学と名は冠しても、法的には「専门学校」という位置づけであった。)
この时期になると、南甲贺町校舎では、もはや増筑では学生数の増加に対応できない状况になっていた。
その対応策として、猿楽町に第二寄宿舎を新设したり、元神田中学校校舎を购入して「锦町分校」を设置したほか、その后も南甲贺町校舎の増筑を図るなどしたが、抜本的な解决には至らなかった。
このような時期に、南甲賀町校舎から至近距離にある、同じ駿河台南甲賀町14?15?16番地の旧小松宮彰仁 (こまつのみやあきひと) 親王邸約3,800坪の賃借の見通しが立ち、早速、建築工事に入った。この奇跡とも言える新キャンパス用地との出会いがあったからこそ、その後1920年に制定された「明治大学校歌」にも「白雲なびく駿河台」とうたわれる現在の駿河台キャンパスが存在することになったのである。この新キャンパスには、明治大学創立30周年及びキャンパス移転を記念する象徴的な建物として「記念館」が建設されることになった。
因みに、この时に赁借した校地は、现在のリバティタワー付近で、元は旧小松宫家の马场であり、当时は、东京鉄道(都电のルーツの一つ)の运输课出张所?电车库として使用されていたとのことである。
なお、明治大学ではこの时既に、同じく旧小松宫家所有の隣接地(现アカデミーコモン付近)を运动场として赁借していたことから、校地を集约できるこの移転计画には大変好都合であった。
新校舎着工から1年后の1911年10月14日から26日の间の6日间に亘り、明治大学创立30周年记念及び校舎新筑落成移転式が挙行された。
7 明治大学を袭った二大事件!
(1) 初代记念馆、失火により全焼
创立30周年を祝った翌1912年3月5日午后11时半顷、初代记念馆は、瓦斯暖炉からの失火により全焼してしまった。新筑后、半年も経たずに消灭した「幻の记念馆」であった。
ただし、火灾保険に加入していたため、基本金の一部を流用し、すぐさま1912年10月に二代目の记念馆を再建することができた。※ 同年7月30日明治天皇崩御により改元(大正)
(2) 创立者?初代校长 岸本辰雄先生急逝
1912年4月4日、初代记念馆の焼失により再建の対応に忙杀され、また、心労も重なっていたであろう、明治法律学校の创立者で初代校长である岸本辰雄先生が、市电で骏河台校舎へ向かう通勤途中、车中で脳溢血のため倒れ逝去された。
先に逝去された矢代 操先生、宫城浩蔵先生に続き、この岸本先生の逝去により、明治大学は创立者3名のすべてを失い、大学运営は、后进の明大人に引き継がれていくことになった。
また、このことに関连するかの如く、岸本先生の3か月后、明治法律学校の校名の由来である「明治天皇」の崩御に伴い、元号は「大正」と改元され、新たな时代の幕开けとなった。
参考资料
? 明治大学の歴史 明治大学史资料センター編(2017年)
? 私学の誕生 -明治大学の3人の創立者- 明治大学史资料センター編(2015年)
? 図録 明治大学百年 明治大学编(1980年)
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