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麻田満洲野-明治大学専门部女子部卒の舞踊家?舞踊史研究者-(校友编)

「舞踊部」(『明治大学女子部卒业记念 昭和九年叁月』)

2024.10
麻田満洲野-明治大学専门部女子部卒の舞踊家?舞踊史研究者-

学术?社会连携部博物馆事务室
大学史资料センター担当
古俣达郎
 
 1935年に明治大学専门部女子部を卒业した石川美代子は在学时の思い出を次のように语っている。
 
 その当时、男子大学で女子に进学の门を开いているのは少く、実家が骏河台下だったので、朝夕闻きなれた「白云なびく骏河台」の校歌にひかれ女子部に入学したのは昭和六年でした。(中略)叁年生の高洼先生に英语を习ったり、驹井満洲野先生に授业外に新舞踊をならった事など、なつかしく思い出されます(『明治大学短期大学五十年史』明治大学短期大学、1979年より)。
 
 回想に登场する「高洼先生」とは高洼静江のこと。高洼は女子部第一期生で在学时から英语讲师を担当し、后に商法学者として明治大学短期大学で长らく教鞭をとった。そして、もう一人、石川が授业外で新舞踊を习ったと回顾する「驹井満洲野先生」が今回绍介する女子部法科卒业生、麻田満洲野である(结婚后、驹井姓から麻田姓へ)。麻田は日本舞踊藤荫流の创始者、藤荫静枝に教えを受け、藤荫満洲野の名で活跃(1941年名取り)、演者としての活动の一方、日本舞踊史の研究を手掛けた。弁护士や裁判官、税理士などの専门职に就く人材を数多く辈出した女子部の卒业生のなかでは异色の経歴を辿った人物である。
 
 麻田は1910年、后に満洲国国务院初代総务庁长官に就任する驹井徳叁の次女として札幌で生まれた。出生时、父は札幌农学校(1907年、东北帝国大学农科大学に改称。现:北海道大学)に在学中であったが、卒业后、南満洲鉄道株式会社(満鉄)に入社、満洲野という名は満洲(野)からとられたものである。
 舞踊への関心が芽生えたのは7歳の时である。父の赴任地だった大连で、白系ロシア人のポーラ?スクシエンシカからバレエを习い、中国の高脚踊りをみたことがきっかけだった。10歳の时に一家は东京へと移転、1928年に叁轮田高等女学校(现:叁轮田学园中学校?高等学校)を卒业したのち、明治大学専门部女子部に入学した。
 明治大学在学前、麻田はすでに藤間流の舞踊家藤間勘次に師事し、明治大学に入学した頃、藤蔭流を立ち上げたばかりの藤蔭静枝(初代)の門下生となった。女子部在学中には舞踊部を結成、後輩の清水ちとせ(詩人)は冒頭の小林の回想を補足するかのように、「三十年前、明大女子部の学生時代、満洲野さんを師匠に舞踊を習得、母校の記念館その他、お座敷のかかるのをいい事」によく踊った、と回顧している (清水ちとせ『飛絮集 随想』芦笛社、1965年)。
 卒业后の1937年、麻田は在学中から手掛けていた『日本舞踊文化史』を刊行した。同着は日本の舞踊の歴史を世界各国のダンスとの比较を踏まえて论じたもので、「舞踊の隆盛を云々される今日未だ日本の舞踊史としてはまとまつたもののない时女性の手に依つて舞踊史が公刊された事は我が国舞踊界を裨益する処大なるものがある」との评価を受けた(村松道雄「舞踊界」『昭和十叁年妇人年鑑』东京联合妇人会、1937年)。とりわけ、第四编「革新舞踊」はイサドラ?ダンカンにはじまるモダンダンスなどの西洋の潮流と日本の新舞踊の同时代性を论じ、麻田独自の视点が际立つ部分である。
 戦後、麻田はヨーロッパ各地で公演を行い、1956年には著書『日本の踊り』の英語版(Asada, Masuno. 1956. Dance of Japan)を刊行、日本舞踊の普及に尽力した。
 
【参考文献】
麻田満洲野『日本舞踊文化史』新阳社、1937年
同『日本の踊り』1955年
河竹繁俊『日本演剧文化史话』新树社、1964年
坂戸公顕『俎上の名流妇人』叁耕社、1936年
綜合文化協会編『日本婦人録 昭和27年版』1951年
西宮安一郎編『藤蔭静樹 藤蔭会五十年史』カワイ楽譜、1965年
日本舞踊协会编『日本舞踊総覧』日本週报社、1952年
町田孝子『日本の舞踊』修道社、1958年