2025.8
福地いま——中国人留学生と结婚し中国の地主になった明大女子学生——
明治大学史资料センター運営委員
叁田刚史(商学部教授)
福地いまの『私は中国の地主だった』(岩波新书、1954年)は、中华人民共和国成立前后の土地改革の现実を伝える贵重な资料である。同书奥付によると、福地いまは1910年栃木県生まれで1936年に明治大学法学部を卒业し、17年间中国に滞在し1953年に帰国している。同书は帰国した福地に対して东京大学东洋文化研究所の研究者らが行った聴き取りを编集し出版されたものである。以下、同书の内容を简単にたどってみる。
福地いまは、明治大学法学部在学中の1933年に中国の留学生と结婚し、1936年に卒业すると4月に神戸を発って北京に移った。1940年には南京に移って中央大学で日本语讲师を终戦まで务めた。その2年后、さらに夫の郷里四川省达県に移った。达県に移って间もなく夫とは死别した。そこで「惊天动地の革命」に遭遇し、1953年には西南师范学院附属中学に在学する娘を残して、重庆から长江を下り上海を経由して17年ぶりに日本に戻った(以上同书「着者のことば」による)。福地の夫郑は四川省达県河市郷の地主の家庭出身で、上海の復旦大学を中途退学して日本に留学したが、帰国后の1948年暮れに地元での事故による怪我がもとで世を去った。结果的に福地は「ひとりで郑家の天秤棒を担」ぐことになり、以后地主としての振る舞いを余仪なくされたのである(以上、同书第一章による)。国共内戦が共产党优位の情势となり、达県にも共产党军が入り国民党军が撤退すると、中国共产党による土地改革が行われることになった。郑家は小作人との関係が比较的良好で、福地が来たのは土地改革直前のことであり、福地自身が小作人を酷使したりしたことはなかった。共产党による小作人への学习运动が徐々に功を奏し、小作人达がはっきりと地主を敌视するようになり、地主は小作料引き下げと保証金返还を迫られ、やがて全财产を申告して差し出し小作人らへ分配することを强いられるようになった。その过程で、厳しく指弾された地主の中には虐待を受けたり死刑に処せられたりする者が出た。福地はむしろ小作人から拥护され、1951年8月には最终的に小作人へ赔偿金を支払い财产を差し出したということで「过关证」を交付され、その后の身の安全を保証されることになった(以上、同书第二から十章)。この过程を通じて一时身の危険を感じつつも、福地は中国共产党の行った农村での学习运动と土地改革を好意的に叙述している。
『私は中国の地主だった』を読むと、中国共产党の进めた土地改革の生々しい现実が浮かび上がり、福地いまの数奇な人生に引き込まれる。同时に、1930年代の明治大学における日本人学生と留学生との関係についても思いを致さざるをえない。福地いまと结婚し帰国した郑という姓の中国人男子留学生については、资料的制约もあり特定できていない。また、同书では、福地の明大への进学、结婚、中国への渡航、中国からの帰国の理由などについてはほとんど何も言及されていない。1940年5月に発行された兴亜院の『日本留学中华民国人名调』は、明治期以降に日本へ留学し明治大学を含む官公私立の高等教育机関を修了ないし卒业した中国人留学生の一覧であるが、この中に福地と同时期に明治大学に留学した四川省达県出身の郑という姓の男子留学生は见当たらない。郑は明治大学の留学生であったが何らかの事情で卒业出来なかったか、他の学校の留学生だったかのどちらかであろう。ただ『日本留学中华民国人名调』の436页には、なぜか「(女)郑福地」が昭和11年明治大学法学部卒业の留学生として掲载されており、原籍は「四川、达县」となっている。この名は、『私は中国の地主だった』の口絵写真にある「过关证」に记されている氏名と一致している。もしかしたら、福地いまは结婚、中国への移住の过程で中华民国籍を取得して中国名「郑福地」を名乗っていたかも知れず、兴亜院による后の调査で留学生と认识されてしまったのかも知れない。
郑?福地夫妻について、研究の范囲を超える个人的事情の追究は慎まなければならない。ただ、一般的状况として、1896年からアジア人留学生を受け入れ、1929年に専门部女子部法科を开设して日本で最も早く法科に留学生を含む女子学生を受け入れた明治大学は、早くから学生の一定以上の多様性を実现し、日本人学生と留学生の交际の空间を用意したともいえよう。