旧4号馆里にあった师弟食堂(1954年)
小川町校舎にあった师弟食堂入口(1983年顷)
大学会馆にあった师弟食堂(1996年)
2021.6
師弟食堂 — 校友山脈を支え続ける学食 — (後編)
明治大学史资料センター運営委員
川口 诚人(学术?社会连携部长)
开设当时の师弟食堂の场所は、1941(昭和16)年5月の骏台新报によれば、「校庭の一隅、元レスリング部、拳闘部跡」摆6闭とされている。「校庭」というのは现在のアカデミーコモン侧で、旧5?6?7号馆と旧大学院栋付近を指す。戦后の新闻记事を见ると、食堂があったのは旧4号馆里(现在の大学会馆里、大学会馆敷地の西侧付近と推定される)とある。なお、その场所は1950年代后半に旧9号馆(现在の研究栋付近の地下1阶)に移転したようである。
学生食堂设置の目的としては、「従来我国の诸大学は英国の大学に比较すれば、教授と教场以外に触接する机会に乏しい嫌いがあり、此れでは眞の大学生活を満喫する间もなく学生は卒业して校门を去ることゝなり、大学教育の目的を十分に彻底することは期し难い」摆1闭とあり、廉価で栄养のある食事の提供だけでなく、教育の効果も期待しての诞生であったことがわかる。
同新闻には、「十二月诸般の準备を完了、同月四日より开かれ」摆1闭、「十二月五日より既に一般学生に开放している」摆3闭とある。推察ではあるが、12月4日に関係者を集めた、今でいうオープニング?セレモニーを行い、実际のオープンが翌日だった可能性も考えられる。
1941(昭和16)年9月の「明治大学食堂経営に関して」の契約書[4]には、提供する食事品目とその値段も付されていた。朝食が二十銭(御飯、味噌汁、海苔、新香又はつくだに)、和洋折衷盛込料理で日々替える定食の昼食及び夕食が三十銭と記されている。また、一品料理として、カレーライス及びハヤシライス(福神漬又は新香付)が廿五銭、カツライスが三五銭、カツ丼及び親子丼(福神漬又は新香付)が四十銭と記されている。さらに、飲み物及びパン類として、コーヒー(温?アイス)が各十銭、バタトーストが十銭、其他飲み物が十銭均一との記載もある。昭和15年、都心の食堂では、並一皿のカレーライスの値段は20銭~30銭 [7]、もりそば?かけそばが15銭[8]であった。また、東京の喫茶店で飲むコーヒー一杯の平均の値段は、昭和11年では10銭~20銭 [9]、昭和9年~15年では15銭 [10]であったという。
1941(昭和16)年9月の「明治大学食堂経営に関して」の契約書[4]には、提供する食事品目とその値段も付されていた。朝食が二十銭(御飯、味噌汁、海苔、新香又はつくだに)、和洋折衷盛込料理で日々替える定食の昼食及び夕食が三十銭と記されている。また、一品料理として、カレーライス及びハヤシライス(福神漬又は新香付)が廿五銭、カツライスが三五銭、カツ丼及び親子丼(福神漬又は新香付)が四十銭と記されている。さらに、飲み物及びパン類として、コーヒー(温?アイス)が各十銭、バタトーストが十銭、其他飲み物が十銭均一との記載もある。昭和15年、都心の食堂では、並一皿のカレーライスの値段は20銭~30銭 [7]、もりそば?かけそばが15銭[8]であった。また、東京の喫茶店で飲むコーヒー一杯の平均の値段は、昭和11年では10銭~20銭 [9]、昭和9年~15年では15銭 [10]であったという。
その后、食堂开设から四年を待たずに败戦を迎えることとなった。平井茂则氏のご子孙(现在の师弟食堂取缔役)によれば、「戦后すぐに焼け出されて、建筑资材が整うまで、锦华公园侧の山の上ホテルの崖下の仮设住宅で过ごし、相扑部のお风吕をお借りした事もあると闻いている。现大学会馆のある场所が短大の校舎と食堂があったそうである。现研究栋のあるところに01教室があり、本馆(记念馆)との间に喷水があった。1970年前后は学生运动があり、大学がロックアウトになり一年近く営业ができず、また、インフレ时期で贩売価格の改定で、カレーライスを25円から30円にする為に大众団交があり、食堂ホールで夜分遅くまで话し合いがあり、冈野加穂留先生(后の学长)が説き伏せて下さったと闻いている。研究栋建设にあたり、记念馆から小川町校舎に移転し、その顷チーズメンチカツを开発しテレビや雑誌の取材が増えた。研究栋ができ、4阶でコーヒーラウンジを运営した。1998年にリバティタワーができ、17阶に移転し现在に至っている」摆5闭とのことであった。
师弟食堂は80年にわたり、廉価で、美味しく、満足感のある食事を提供することで、明治大学の学生を支えてきた。1981(昭和56)年には、9号馆から小川町校舎(现在の紫紺馆)に移転した。同年5月の明治大学学园だよりには、「九号馆地阶にあった师弟食堂が小川町校舎に移転し、四月十叁日から営业している。フロアーは一阶と地下の二カ所にわかれたが、席の総数は二百五十とほぼ同じ、室内は前より明るくなった」摆11闭と报じられている。1985(昭和60)年には、小川町校舎から、新筑された大学会馆地下1阶へ移転した。现在はリバティタワー17阶「スカイラウンジ暁」として営业を続けている。スカイラウンジ暁は、地上约75メートルからの眺望も素晴らしく、首都东京の中心にあって、皇居の緑や都会のビル街の织り成す风景を爱でつつ、友人や先生と语らいながら食事を楽しむことができる。このコロナ祸のなか、大変厳しい状况ではあると思うが、歴史ある师弟食堂には、今后も将来の校友山脉を筑いて行く学生を支え続けていっていただきたい。
【参考文献等】
[1] 『明治大学新聞』1942(昭和17)年1月17日, 「教職員と學生の總親和を期し “師弟食堂”生る 志田總長親心実を結ぶ」
[2]『駿台新報』1937(昭和12)年6月26日, 「三科會の希望に 阿保専務 誠意ある回答 但し食堂開設は困難か」
[3]『明治大学新聞』1941(昭和16)年12月17日, 「師弟食堂の名も床しく 待望の学生ホール開かる」
[4] 契約書『明治大学食堂経営に関して』1941(昭和16)年9月, 明治大学歴史編纂事務室
[5] 2021年5月20日他 株式会社師弟食堂赤倉ホテル 平井代表取締役、大沢取締役 インタビュー(メール、電話)
[6]『駿台新報』1941(昭和16)年5月29日, 「ホールを兼ねる 學生食堂完成近し」
[7]『値段の明治?大正?昭和風俗史[正]』朝日新聞社, 1981年, 231ページ
[8]『値段の明治?大正?昭和風俗史[正]』朝日新聞社, 1981年, 71ページ
[9] 岩崎爾郎 『物価の世相100年』読売新聞社, 1982年, 292ページ
[10]『値段の明治?大正?昭和風俗史[正]』朝日新聞社, 1981年, 135ページ
[11]『明治大学学園だより』1981(昭和56)年5月15日, 「師弟食堂 小川町校舎に」
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