【明治大学比较法研究所主催】Laurent Mayali教授の講演会を開催しました
2023年11月13日
明治大学 比较法研究所
Laurent Mayali教授(写真右)と大六野学长(写真左)
講演中のLaurent Mayali教授
10月17日の讲演会の様子(和泉キャンパスにて)
10月19日の讲演会の様子(骏河台キャンパスにて)
カリフォルニア大学バークレーロースクールの先生が来日され、10月17日(火)に「Comparative constitutionalism and democracy」を和泉キャンパスで、10月19日(木)に「Authority and legitimacy of judicial power in democratic societies」を骏河台キャンパスで讲演された。
マヤリ先生は、フランスとドイツでの研究歴を経て、1985年にカリフォルニア大学バークレー校の教员となり、1988年に同大学ロースクールの教员となった。世界の复数の大学で客员教授を务め、ヨーロッパ、アフリカ、アジア各地で法制史や比较法の分野で幅広く讲演を行っている。
マヤリ先生は、立宪主义(肠辞苍蝉迟颈迟耻迟颈辞苍补濒颈蝉尘)と民主主义(诲别尘辞肠谤补肠测)について讲演した。マヤリ先生は立宪主义の定义の曖昧性に触れ、民主主义と立宪主义は同一ではない、対立するという新しい视点から问题提起した。以下に讲演の一部を要约する。
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法律とは、异なる人々が共生し、意思疎通し、人间とは何かを検讨するための共通の言语のひとつである。「宪法(肠辞苍蝉迟颈迟耻迟颈辞苍)」は统治の手段だけではなく、我々が何者かというアイデンティティを探るための手がかりを提供している。宪法は、过去、现在、将来や我々が描く姿を投影している。
民主主义とは何だろうか。裕福な男性市民だけが参加でき、女性、外国人、奴隷は参加できなかったアテネの民主主义と现在の我々の想定する民主主义は异なっている。ギリシャ语の「人民」を意味するデモス(诲别尘辞蝉)は、非常に小さな集団を指していた。この理念が现在にも継受され、我々が社会で共生するための组织を正当化する。我々が自らを统治しているはずという信念が正统性の根拠となっている。そして、その我々自身の自治、统治は个人の自律性という考えに基づいている。我々は、我々であるがゆえに存在し、権利を有している。
「人」の有する権利と、「国家」を定义する概念の形成に时间的なズレが存在している。このことに気づけば、グローバリズムとナショナリズムの问题を理解する手がかりを得られるだろう。我々は民主主义の一员としてのアイデンティティと特定の国家の一员としてのアイデンティティ、そして、政治文化と社会构造に付随した権利を有している。
宪法と区别されるのが、宪法の法典化、成文化された宪法である。
民主主义と立宪主义の紧张関係は、多くの文脉に存在している。民主主义が过去志向で、伝统に基づいていると考えれば、立宪主义は将来志向で、ある种の革新、新しいものを创造しようとするものといえるかもしれない。
多くの国は、それぞれの宪法を有している。我々が変化し、新しい社会に移行し、新しい価値観を有するに至ると新しい宪法が必要になるかもしれない。そこで、成文化された宪法との関係が问题になるだろう。现実に存在している宪法典に新しい规定が追加されただけで、宪法の构造が本质的に変容してしまうことはあまりない。
民主主义が楽観主义にもとづき、我々は善良な生き物であり、共同して生きていけるという前提で物事を考えるのに対して、立宪主义は悲観主义と现実主义にもとづき、我々のすべてが必ずしも善い人だけではないという考え方に立っている。
権力に人々が参加するための様々な参加制度が用意されている。我々に権力が与えられていると表现するならば、権力は我々すべてのものである。立法、行政、そして司法を我々は有している。しかし、现実には権力へのアクセスという问题が存在している。谁が権力にアクセスできるのか。组织、制度化された国家、その権限をどのように构想し、谁が现実に行使し、できるのかという问题である。
文化的な机能に着目してみれば、宪法は物语として、人々の记忆、アイデンティティを语っている。家族において祖父母、子どもたちを通じた连続性が保たれているように、宪法にも一定の连続性が存在している。そこには无限の空间が存在しているはずである。
领土という概念は、自己と他者、支配と被支配の区别を生んだ。恐怖(迟别谤谤辞谤)とは、领土(テリトリー,迟别谤谤颈迟辞谤测)の语源である。支配者の権力に対する恐怖という考え方が象徴されている。领土の概念は、自分たちと他者を区切り、限界をつけようとするものである。
宪法は、我々をかたちづくり、あるべき姿を时间と空间の组み合わせで描こうとするものである。
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10月17日の讲演の最初には大六野学长が挨拶され、讲演には学生、横田明美先生、大津浩先生、江藤英树先生が出席した。10月19日の讲演では、比较法研究所の所长であるメンクハウス,ハインリッヒ ヨハネス先生が挨拶され、斎藤一久先生も参加した。
横田先生は、フェイクニュースが民主主義との関係において各国で問題になっている点について、大津先生は、「物語としての憲法」を憲法典に書き込むことを立憲主義が認めているかという点、2022年のアメリカのDobbs v. Jackson Women's Health Organization, 597 U.S. ___ (2022)判決と憲法改正についてコメントされた。
学长は、正统性としての我々と、実际に権力を行使する我々のずれについて学生たちに考えるヒントを提供しつつコメントした。短い滞在であったが、マヤリ先生は、我々に考える素材を提供した。
マヤリ先生は、フランスとドイツでの研究歴を経て、1985年にカリフォルニア大学バークレー校の教员となり、1988年に同大学ロースクールの教员となった。世界の复数の大学で客员教授を务め、ヨーロッパ、アフリカ、アジア各地で法制史や比较法の分野で幅広く讲演を行っている。
マヤリ先生は、立宪主义(肠辞苍蝉迟颈迟耻迟颈辞苍补濒颈蝉尘)と民主主义(诲别尘辞肠谤补肠测)について讲演した。マヤリ先生は立宪主义の定义の曖昧性に触れ、民主主义と立宪主义は同一ではない、対立するという新しい视点から问题提起した。以下に讲演の一部を要约する。
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法律とは、异なる人々が共生し、意思疎通し、人间とは何かを検讨するための共通の言语のひとつである。「宪法(肠辞苍蝉迟颈迟耻迟颈辞苍)」は统治の手段だけではなく、我々が何者かというアイデンティティを探るための手がかりを提供している。宪法は、过去、现在、将来や我々が描く姿を投影している。
民主主义とは何だろうか。裕福な男性市民だけが参加でき、女性、外国人、奴隷は参加できなかったアテネの民主主义と现在の我々の想定する民主主义は异なっている。ギリシャ语の「人民」を意味するデモス(诲别尘辞蝉)は、非常に小さな集団を指していた。この理念が现在にも継受され、我々が社会で共生するための组织を正当化する。我々が自らを统治しているはずという信念が正统性の根拠となっている。そして、その我々自身の自治、统治は个人の自律性という考えに基づいている。我々は、我々であるがゆえに存在し、権利を有している。
「人」の有する権利と、「国家」を定义する概念の形成に时间的なズレが存在している。このことに気づけば、グローバリズムとナショナリズムの问题を理解する手がかりを得られるだろう。我々は民主主义の一员としてのアイデンティティと特定の国家の一员としてのアイデンティティ、そして、政治文化と社会构造に付随した権利を有している。
宪法と区别されるのが、宪法の法典化、成文化された宪法である。
民主主义と立宪主义の紧张関係は、多くの文脉に存在している。民主主义が过去志向で、伝统に基づいていると考えれば、立宪主义は将来志向で、ある种の革新、新しいものを创造しようとするものといえるかもしれない。
多くの国は、それぞれの宪法を有している。我々が変化し、新しい社会に移行し、新しい価値観を有するに至ると新しい宪法が必要になるかもしれない。そこで、成文化された宪法との関係が问题になるだろう。现実に存在している宪法典に新しい规定が追加されただけで、宪法の构造が本质的に変容してしまうことはあまりない。
民主主义が楽観主义にもとづき、我々は善良な生き物であり、共同して生きていけるという前提で物事を考えるのに対して、立宪主义は悲観主义と现実主义にもとづき、我々のすべてが必ずしも善い人だけではないという考え方に立っている。
権力に人々が参加するための様々な参加制度が用意されている。我々に権力が与えられていると表现するならば、権力は我々すべてのものである。立法、行政、そして司法を我々は有している。しかし、现実には権力へのアクセスという问题が存在している。谁が権力にアクセスできるのか。组织、制度化された国家、その権限をどのように构想し、谁が现実に行使し、できるのかという问题である。
文化的な机能に着目してみれば、宪法は物语として、人々の记忆、アイデンティティを语っている。家族において祖父母、子どもたちを通じた连続性が保たれているように、宪法にも一定の连続性が存在している。そこには无限の空间が存在しているはずである。
领土という概念は、自己と他者、支配と被支配の区别を生んだ。恐怖(迟别谤谤辞谤)とは、领土(テリトリー,迟别谤谤颈迟辞谤测)の语源である。支配者の権力に対する恐怖という考え方が象徴されている。领土の概念は、自分たちと他者を区切り、限界をつけようとするものである。
宪法は、我々をかたちづくり、あるべき姿を时间と空间の组み合わせで描こうとするものである。
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10月17日の讲演の最初には大六野学长が挨拶され、讲演には学生、横田明美先生、大津浩先生、江藤英树先生が出席した。10月19日の讲演では、比较法研究所の所长であるメンクハウス,ハインリッヒ ヨハネス先生が挨拶され、斎藤一久先生も参加した。
横田先生は、フェイクニュースが民主主義との関係において各国で問題になっている点について、大津先生は、「物語としての憲法」を憲法典に書き込むことを立憲主義が認めているかという点、2022年のアメリカのDobbs v. Jackson Women's Health Organization, 597 U.S. ___ (2022)判決と憲法改正についてコメントされた。
学长は、正统性としての我々と、実际に権力を行使する我々のずれについて学生たちに考えるヒントを提供しつつコメントした。短い滞在であったが、マヤリ先生は、我々に考える素材を提供した。