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2013新春座谈会 世界へ ロンドンで辉いた紫紺魂

2012年ロンドンオリンピック、パラリンピックで日本に、明大に、元気と勇気を与えた明大紫紺のアスリート。その道のりと、これからの目标や梦、热い気持ち、そしてスポーツが与える感动について语りあった。

学务担当常勤理事
叁木 一郎(みき?いちろう)

1950年生まれ。1973年明治大学工学部卒业、1981年同大学院博士课程修了。1978年明治大学工学部助手、1990年理工学部教授。理工学部长等歴任。
大学院法学研究科博士前期课程2年
秋山 里奈(あきやま?りな)

1987年生まれ。
2012年ロンドンパラリンピック(竞泳100メートル背泳ぎ)金メダル。
政治経済学部4年
平井 康翔(ひらい?やすなり)

1990年生まれ。
2012年ロンドンオリンピック(竞泳オープンウオーター?スイミング)日本人初出场。

骏台体育会相谈役、评议员
林 务(はやし?つとむ)

1936年生まれ。1959年明治大学商学部卒业。
&苍产蝉辫;水泳部OB、同部监督?コーチを务めたほか、JOC専务理事?日本水泳连盟副会长を歴任。

叁木 秋山さんと平井君のお二人が、水泳を始めたきっかけからお闻きします。

平井
 僕は小児喘息を持っていたので、生まれて3カ月の顷から母がベビースイミングに通わせたのがきっかけです。

秋山 姉が入っていたスイミングスクールに3歳になったときに入れてもらいました。もともと水游びが好きだったらしいのですが、気づいたら泳ぎ始めていました。目が见えなくてもプールの中だったら怪我はしにくいですし、全身を动かせて体にもいいスポーツだということで両亲がすすめてくれたのがきっかけです。

叁木 本格的に竞技の水泳をやろうと心に决めたのは。
 
平井 目标を达成するのがすごく好きだったので、インターハイで优胜したい、それをクリアすると、国际大会に出たい、そして、国际大会でメダルを取りたいと、1つずつ大きな目标を达成していったらオリンピックにたどり着きました。

秋山 小学校5年生のときです。たまたま夏休みの読书感想文の课题図书で、同じ全盲のパラリンピック选手、河合纯一さんの本を読んでパラリンピックの存在を知り、全盲でも水泳界で活跃できるということがわかった。自分も河合さんみたいに世界一になりたいとそのときに思ったのがきっかけで、选手コースに入れてもらったりしながら、中学生に入ってから障害者の水泳大会にも出るようになりました。

叁木 平井君の种目はOWS(オープンウオータースイミング)で、秋山さんは背泳ぎですけれども、他にもいろいろある中で、その种目を选んだのはどういう理由ですか。

平井 普段から竞泳で400メートルと1500メートルをやっていたので、长距离に向いているのじゃないかという(コーチの)すすめです。

秋山 私は足首がすごく柔らかいので、最初は谁が见ても平泳ぎに向いていると言われていたんですけど、いざ平泳ぎをやってみたらあまり伸ませんでした。アテネ?パラリンピックを目指すとなったときに、トップに近い种目の背泳ぎで标準记録を切ったら出られるかもしれないということでやり始めたら、背泳ぎがどんどん伸びて、気づいたら背泳ぎの选手になっていました。

叁木 普通だと小学校の校内大会があって、地域の大会があって、県大会があってと顺番に行くわけですよね。オリンピックの场合には、どういう道のりで决まるのですか。

平井 OWSは、世界で25人しか出场ができません。日本で1番になったからといって行けるわけではく、オリンピック前年の世界选手権の上位1位から10位までがまず出场権利を得ることができます。そしてオリンピックの2カ月前の世界最终予选で残りの15人を决めます。僕の场合は1位から9位までに入らないとオリンピックに出场することができなくて、可能性は10%ぐらいしかなかったんです。大学のPRポスターにも「目指せオリンピック出场」と书いてもらって、オリンピック出场権を取れなかったら、もう学校に颜出せないと思って死にものぐるいでした。(笑)

叁木 OWSというのは、昔はなかったですね。これはどういう竞技ですか。

平井 90年代から始まった种目で、2008年の北京五轮から公式种目になりました。10キロを2时间ぐらい泳ぎ続ける水泳のマラソンです。ロンドンは池でやりました。水温が18度ぐらいで、すごく寒かったです。

叁木 普通のプールと违ってロープなどが张ってあるわけではないですね。难しさというのはないですか。

平井 あります。开催されるところによって、まず水温が违いますし、海であれば波がありますし、潮の流れを読まなければいけない。コースロープがないので、集団で泳ぐわけですから、ボディコンタクトが胜负です。

叁木 失格とかあるんですか。

平井 审判船が伴走していまして、明らかに足を引っ张ったり、肘打ちをしたり、故意の妨害があった场合は、サッカーと同じように最初はイエローカードという警告が出されます。それを2枚もらうと退水という形で失格になります。

叁木 続いて秋山さん、パラリンピックのとき、ターンした后ロープに1回ひっかかりましたね。あのときはどんな感じでしたか。

秋山 すぐ失速したのがわかったので、ヤバイッと思いました。今までもそういうレース展开ばかりだったんです。コースロープに当たって负けるということが多かったので、今回は负けるわけにいかないと思って、そこからはずっと「金メダル、金メダル、金メダル」とそれだけを思って泳ぎました。

叁木 やはり金メダルを获るという意欲をかなり燃やしていたんですね。

秋山 今回は、金メダルを获れなければパラリンピックに行く意味がないと思っていたので、本当に金メダルにかけた思いが强かった大会でした。

叁木 ゴールした瞬间、胜ったというのはわかりましたか。

秋山 いいえ。顺位は电光掲示板が见えないのでわからないのですが、ターン侧とゴール侧に一人ずつコーチが立っていて、指示棒で头を叩いてタッチのタイミングを知らせてくれるんです。そのコーチが「1番だよ」と教えてくれたので、そこで初めて自分の顺位を知りました。

そしてこれから、未来へ

叁木 オリンピック、パラリンピックからもだいぶ时间がたちましたけれども、现在の水泳に対して、オリンピック、パラリンピックに対して、どんな心境ですか。

平井 オリンピックが终わった后は何かすごい大きなものが失われた感じで、あの期间は何だったのかという、オリンピック?ロスに1カ月ぐらいなって、今、やっと前を向こうとなってきています。ぼくはオリンピアンになることが最大の梦だったので、それが叶えばやめられるかなと思ったのですが、やっぱり出终わってみると、初めて全国大会に出场して予选败退で决胜に残れなかったもどかしさと同じように、オリンピックのメダルが欲しいと思ってしまった。今22歳で、この种目を始めて3年半でオリンピックに行けたので、4年后26歳で、精神的にも肉体的にも一番いい状态ですし、リオでメダルを本気で狙おうと思っています。

秋山 私は、ロンドンで引退と决めていました。実际に世界一になったときに表彰台の上で、私はこのパラリンピックの舞台には2度と戻ってこないのだろうなという风に思えたので、それだけやり切った感のあるロンドン?パラリンピックでした。私の次の目标は、しっかり社会人として立派に成长して、いろんな人から尊敬してもらえたり、信頼してもらえるような大人になりたいということです。

叁木 平井君は、オリンピックをまた目指すとのことですね。

平井 はい。あと4年间は実业団のような形で竞泳を続けてメダルを目指したいと思っています。

「梦」の力、オリンピック



叁木 ここからは林さんにも加わってもらってオリンピックについて话したいと思います。林さんは、明大の水泳部の监督もやっていただいたこともありますし、JOC専务理事、日本水泳连盟副会长などを歴任されていますね。

 お二人の水泳の出会いと同じように、私も水泳をやり、1964年の东京オリンピックの感动を受けて、スポーツ界に、オリンピックに携わりたいという気持ちで今日に至りました。东京オリンピックのときには、明治大学の同期であった柔道の神永昭夫君がアントン?ヘーシンクに负け、水泳も800メートルリレーで铜メダルを获っただけで惨败というような中で、正直申しまして、「この先、日本のスポーツ界はどうなるのだろうか」というような気持ちにもなりました。今は引退しておりますけれども、JOCの専务理事の顷は、日本选手団の副団长をやったり、アジア大会の日本选手団の団长をやったりして、日本のスポーツの向上を図ってきました。

叁木 日本で东京オリンピックを2020年に招致しようと动き出していますが、どのようにお考えでしょうか。

 今の近代オリンピックは、1896年にアテネで第1回の大会が开催され、昨年のロンドンで30回目を迎えました。この间、世界大戦や国际纷争で、オリンピック开催そのものを中止することが3回もありました。ですが、回を重ねるごとに、世界の人々に梦と希望、感动を与える大会になったのではないかと思います。国际亲善并びに世界平和に贡献をした一番大きなイベントに発展してきたのがオリンピックです。世の中の人々にスポーツに参加することを极力促す。そして健全な肉体と精神を持ったスポーツマンを育てる。スポーツを通してお互いに理解を深めて、国あるいは文化の违いを乗り越えて国际亲善、世界平和に贡献しようというのが近代オリンピックの精神で、これがオリンピズムです。このオリンピズムを启蒙し、実现するために、多くの组织あるいは人々が活动しているのが、オリンピック?ムーブメントになるわけです。その集大成がオリンピック竞技大会ということになります。オリンピック竞技大会というのは、今、素晴らしい大会になっております。世界の最高のアスリートが集って、最高のパフォーマンスを発挥して竞い合う。その场に参加するには、先ほど平井选手が言ったように、相当のハードルを乗り越えなくてはならない。そのオリンピックで世界のトップになるというのは非常に难しい。相当な努力をして、运も味方につけ、そこで初めてオリンピックの金メダルを获った人间は辉くわけです。その辉いた部分が、我々に感动を与えてくれる。やはり4年に1回のオリンピックというのが、価値があるのではないかと思います。そのオリンピックを、ぜひ东京で开催して、若い世代の皆さんに、オリンピックを目の当たりにしてもらいたい。その感动をさらに次の世代に引き継いでもらえればと愿っているところです。

叁木 平井君の场合、うまくすると东京でも出られるかもしれませんね。明治大学では「世界へ-『个』を强め、世界をつなぎ、未来へ-」を使命としていますが、お二人はスポーツの世界で「世界へ」というところで活跃してこられたわけで、后辈や高校生に、何かメッセージがあったら、ぜひお闻かせください。

平井 僕は明治大学に入学したから、今回五轮に行けたと思っています。僕みたいな个性の块を大いに尊重してくださるし、明大は集まる人が素晴らしい。友だちや、同期や、仲间ですね。竞技に応用できる授业もたくさんありました。自分自身のやる気と梦があれば、入ったらすごく伸びる大学だと思います。これから大学を选ぶ方がいましたら、僕は明治に进学することをおすすめします。

秋山 私は、もともと水泳をやることを考えて明治に进学したわけではなかったのですが、いざ北京パラリンピックに行きたいと梦を持ったときに、大学をあげて応援してサポートしてくれたんです。勉强の方でも、视覚に障害があって、健常の学生に比べると勉强する上でハンディというのはあるのですけど、先生方も、先辈方も、学部の同级生も、みんなで、大学をあげてサポートをしてくれたんですよね。なので、平井さんもおっしゃっていたように、梦とか目标とか、あとやる気があれば、それを叶えられる大学だと、実际に6年间在学させてもらって感じました。日本一、世界一の大学が明治大学だと私は思っています。
 
叁木 皆さんの梦をかなえる明治大学であり続けたい。世界に夸れる大学にしていきたいと思います。本日はどうもありがとうございました。