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私が学んだ道、そして明治 黒子 昇(1956年商学部卒業)

昭和25年春、疎开先の栃木県旧制真冈中学より明治高校へ転入学をした。それより以前の中学1年の时、酒豪であった父亲が病に倒れ、床に伏し再起不能になった。母と家计のやりくり、生きるために农业を行い、山に枯木を収集に荷车を引いて行った。明治高校入学后も苦しい家计が続いた。昭和25年夏、明治高校野球部は鬼の岛冈监督のもと、东京都代表として甲子园に出场。ベスト4に胜ち残り、全都で応援した。岛冈监督は翌年明大监督に就任。直后より4年连続优胜、以降も优位に胜率を挙げた。

当时小生は月刊誌「リーダーズダイジェスト」を毎月爱読していた。当时のアメリカのテレビ事情判明。日本でも开局のニュースが流れていた。NHK技术研究所を访ねた。世田谷の砧で木造であった同所で相谈し、电线のカットサンプルを戴く。苦心の末テレビ用电线製造设备を最小限で整备した。NHKテレビ放送开始の5カ月前だった。试作品製作の毎日で纳得の品を造るまで永い时间が経过した。昭和28年2月1日、NHKテレビ放送开始寸前に合格品完成。テレビ电线製造会社が诞生した。时代が要求する商品のため贩売はスムースに流れ、以后40年间利益を生む事业になり、家族は喜んでくれた。この仕事に协力し阴の力になり励ましてくれた両亲と家内に心より感谢の毎日である。

若き日に学んだ明治高校、明治大学は心の粮であり、仕事の上でも伟大な力になりました。仅少の寄付ですが、同窓会皆さまに少しでもお役立ちしますれば幸甚です。