着者は、能役者のあり方について世阿弥が述べた言叶を、世阿弥の思想の成就へ向けて、自らの言叶で语る。本书で取り上げられた言叶のひとつ「离见の见」とは、観客席から见ている観客の目をとおして自分を见ることである。客席から见える自分の姿を见きわめて能を舞う。そして世阿弥は、「后ろ姿を覚えねば、姿の俗なる所をわきまえず」(『花镜』)とも述べる。后ろ姿を见ていないと、その见えない后ろ姿に卑しさが出ていることに気がつかない、と。よくよくかみしめねばならぬ言叶である。
また、着者によれば、世阿弥の伟大さは、既存の物语を解体して新しい表现へと転化させたこと、そのシステムを作ったことである。旅の僧という异形の者が村を访れるパターンで、新しい能のドラマが展开する。着者は、世阿弥を语りながら自己を省察し自己を语る。试练を乗り越える方法を能役者に提示する世阿弥の言叶は普遍性を持つ。かかる立ち位置から书かれたこの本は、世阿弥の现代性をみごとに引きだしている。
加藤哲実?法学部教授(着者も法学部教授)
また、着者によれば、世阿弥の伟大さは、既存の物语を解体して新しい表现へと転化させたこと、そのシステムを作ったことである。旅の僧という异形の者が村を访れるパターンで、新しい能のドラマが展开する。着者は、世阿弥を语りながら自己を省察し自己を语る。试练を乗り越える方法を能役者に提示する世阿弥の言叶は普遍性を持つ。かかる立ち位置から书かれたこの本は、世阿弥の现代性をみごとに引きだしている。
加藤哲実?法学部教授(着者も法学部教授)