「科学技术」と「科学?技术」
総合数理学部長 砂田 利一
複合語の間に中黒の点を入れただけで語感が相当変わる場合があるが、「科学技术」と「科学?技术」はその一例である。「科学技術」は技術に力点があり、「科学」は「技術」を修飾していて、「科学的技術」の意味に取れる。他方、「科学?技術」は、「科学と技術」という並列的表現の意味合いがある(英語では「科学技術」はtechnologyと訳され、「科学?技術」はscience and technologyである)。前者の「科学技術」にこだわる人の多くは、技術立国を標榜する日本ということもあり、科学は技術に「奉仕」するものと考えている。直接技術とは結びつかない基礎科学に重点を置く研究者は、後者の「科学?技術」という表現に思い入れがある。
歴史を振り返れば、科学と技术は密接に関连しながら発展してきたという事実は否定できない。古代ギリシャにおける科学の歴史を论じた「ギリシャ人の科学」(出隆訳、岩波新书)の中で、B.ファリントンは次のように主张している。ターレス、アナクシマンドロスを代表とするイオニア学派の自然哲学?科学は、现象の観察および手工业の技术とは切り离せない形で発展したが、その后のピタゴラス?プラトンの时代になると、次第に思弁的な性格を持ち始め、その结果科学は停滞し、技术も进歩を止めたというのである。その背景にはポリス都市国家における奴隷制があり、手を使う「技术」は「奴隷の仕事」と考えられていて、技术と科学の関係が弱体化したというのが彼の言う理由である。
このような主张に対して、科学の中で特异な位置を占めている数学の立场から歴史を见直すとどうなるか。ピタゴラスは「万物は数である」という宣言の下に、天体の运动から音楽まで、すべてを数により説明しようとしたが、これはファリントンの言う思弁的自然哲学の典型である。时代は违うが、ケプラーも彼の有名な法则を発见する前は正多面体が惑星の轨道を説明すると考えていた。确かに彼らは思弁的自然哲学のドグマに足を捕られていたのである、とは言え、牵强付会を恐れずに言えば、ピタゴラスの主张は、「森罗万象の多くは、数学的モデルを使ってこそ深く理解される」ということになるのであって、この意味では现代の科学?技术でもピタゴラスの宣言には理がある。実际、ピタゴラス(学派)が重要视した数学理论(例えば叁平方の定理や叁角形の内角の和が180度であるという定理、さらには素数の理论)は、形を変えたとしても、二千数百年の时を経て现代の科学と技术に直接繋がっているのである(GPSの技术で重要な役割を果たすアインシュタインの一般相対论は、古代の几何学理论の延长线上にあり、ネット社会のセキュリティーに関连する暗号理论には、素数の理论を含む纯粋数学が使われている)。
良质な科学は良质な技术を生み出す。技术から远く离れているように见える纯粋数学もその例に漏れない。重要なことは、科学と技术の相互作用を短期间の関係で评価すべきではないということである。笔者としては、やはり「科学?技术」という表现にこだわりたいのである。
(総合数理学部教授)