オリンピックとパラリンピックの夏であった。愚生も寝不足を顾みず、连日深夜までのテレビ観戦と相成った。本学関係の选手もオリンピックで4个のメダルを获得する大活跃を见せてくれた。
ところで、観戦しながら思ったことがある。オリンピックとパラリンピックは别々の大会でなければならないのだろうか。例えば、想像するのは、健常者と障害者が、开会式や闭会式で手を取り合って入场行进する姿や、トラックで抜きつ抜かれつの大接戦を演じる姿。これこそスポーツの祭典、平和の祭典に、より相応しい姿なのではないだろうか。现実には规模への対応、クラス分け、主催団体の违いなど障壁はあろうが、少なくとも方向はそうであって欲しい。
考えてみれば、これは大学においても全く同じことではないか。健常者と障害者が手を取り合って学ぶ、そのこと自体に意味がある。本学でも身体や精神に障害のある入学志愿者や学生に可能な限り対応をしている。そのためにボランティア学生もおり、教务事务室の下に学习支援チームもある。しかし、必要なことはまだまだ多くあるはずだ。可能の范囲をさらに広げるべく努力していく、本学はその方向にある。
ところで、観戦しながら思ったことがある。オリンピックとパラリンピックは别々の大会でなければならないのだろうか。例えば、想像するのは、健常者と障害者が、开会式や闭会式で手を取り合って入场行进する姿や、トラックで抜きつ抜かれつの大接戦を演じる姿。これこそスポーツの祭典、平和の祭典に、より相応しい姿なのではないだろうか。现実には规模への対応、クラス分け、主催団体の违いなど障壁はあろうが、少なくとも方向はそうであって欲しい。
考えてみれば、これは大学においても全く同じことではないか。健常者と障害者が手を取り合って学ぶ、そのこと自体に意味がある。本学でも身体や精神に障害のある入学志愿者や学生に可能な限り対応をしている。そのためにボランティア学生もおり、教务事务室の下に学习支援チームもある。しかし、必要なことはまだまだ多くあるはずだ。可能の范囲をさらに広げるべく努力していく、本学はその方向にある。