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「アメリカ思い出话」

経営企画担当常勤理事 大原 幸男

私の海外驻在歴は15年に及びましたが、运よく2度ともシリコンバレー近郊のベイエリアといわれる気候が良い恵まれた场所でした。

渡航后、早速アパートメントの入居手続きをしていると、きちんとした身なりで、黒人の血が入っていると见受けられる青年が空き部屋の伺いをしに来たところに遭遇しました。アパートメントのマネージャーは、「今は満室なのでウエイティング?リストに要件を书くように」と対応していましたが、彼が去った后に、「残念だが、待っても空きは来ないよ」とぼそっと呟いていました。差别があるのだという事を初めて体験した机会になりました。

仕事では、アメリカ人の部下を育成しましたが、时には部下が仕事を习得すると、赁金アップを要求される事もありました。「丁寧に教えてくれたのは贵方だが、习得したのは私の努力の结果であり、他社から○○ドルのオファーをもらった。自分としては贵方もこの会社も好きなので赁金を上げてもらってここに残りたい」と言われ、面食らった事を覚えています。

1977年当时、国际电话代金は高く、割引のある日曜の午后にしか日本に残した家族と话すことができず、1回10分ほど、月4回で500ドル以上(当时は1ドル=260円くらい)もかかり大変な负担になりました。また、ファックスが导入される以前、テレックスという手段でやり取りしていた时代になりますが、书类のやり取りは国际邮便が主な手段でした。邮便局に行かなくても邮便代金をまとめて前払いしておいて、必要に応じて代金シールを取り出せる机械が会社にあり、书类の日付の操作ができ、大いに助かりました。

娘が盲肠になった际には、ホームドクターの指定する病院に行くと、はじめに保険の加入状况と支払いのためのクレジットカードの提出を求められ、承认されないと入院手続ができません。费用は6000ドル。保険で8割カバーされても自己负担が1200ドル、日本円にして30万円です。日本の会社の人事部に连络し、日本での自己负担金と同等に処理してもらいましたが、日本の健康保険制度は素晴らしいということを実感する机会になりました。

异国の地で生活し、子育てをするには、夫妇の意思疎通、协力が欠かせません。その意味でも私にとって妻はある意味、苦楽を共にした戦友でもあります。戸惑うこともたくさんありましたが、日本にいるだけでは体験できない、カルチャーの违いを肌身で体感することもできましたし、素晴らしい友人たちにも出会えました。现役学生の皆さんにも、留学などを通して异文化の中に身を置く机会に积极的にチャレンジすることをお勧めしたいと思います。