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Master of Public Policy, MPP

公共政策のプロフェッショナルを育成するガバナンス研究科

【西出顺郎専任教授】コロナとシビリティ

本コラムは西出顺郎専任教授が執筆しております。 笔者:西出顺郎教授

これを书いているのは5月4日である。残念ながらコロナウィルスの感染猛威は収まったとはいえず、今回、紧急事态宣言が解除されることはなかった。そのうえで5月31日までの延长が决まった。政府や各地方自治体の责任者は毎日のようにマスコミの前に现れ、市民に外出自粛を粘り强く求めている。その表现力や説得力に异论はでているが、我々は引き続き努力しなければと素直に思う。他方、微热が続いても病院に行くことを踌躇う知人を想うと、3密状况が流れるテレビ映像にはやるせなさを覚える。社会の礼节を守らぬ辈は时代剧ドラマではないが「成败!」、という気分にならないわけでもない。

最近、でシビリティについて述べる机会を得た。シビリティとは、市民らしい、礼节ある立ち振る舞いを指す言叶である。政治?行政の忖度や改ざんを防ぐには我々のシビリティに目を向けよ、いわば统治者集団の襟を正すには、まずは彼らを选んだ自らの襟を正せ、ということになろうか。一般市民が変わることで统治者侧のポリティカル?シビリティも高まれば???という期待を込めたものだった。そこで今回も大学からの情报発信ということなので、シビリティについてもう少し考えてみたいと思う。

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シビリティの陥穽

シビリティとは他者に敬意を払い、自らが行动することで具现化される概念である。よって外出自粛が求められる中、3密の中に突入する人々には、社会が批判的な眼差しを向ける。だが同时に、その集団からは人间の人间らしさを感じとることができる。それは、すべての人々が自らの烦悩すべてを伦理や理性で统制できるわけではないこと、また完全な合理性を贯ける情报収集力やその分析力など持ち得ていないことである。自らの意思决定のなかで正常性バイアスが働いてしまうのは致し方のないことかもしれない。

となると、何らかの罚则という强制手段を用いて感染者の増大や医疗崩壊を回避することは概ね受容されることになろう。勿论、これには副作用が伴う。罚则の厳しい外出禁止措置を求められた场合、経済は甚大なダメージを被る。外出自粛で长い期间制限されるのと外出禁止を彻底しその期间が短くなるのとどちらがよいか、その答えが推测できればまだありがたいのだが、そう简単ではない。みえないウィルスにかかる予测を论理的に得心するには相応の情报や知识が必要だ。情报の非対称性や外部不経済的な観点、また海外の动向から考えても、我が国において公権力による市场メカニズムへの积极介入は、まさしく喫紧の重要施策とえよう。地域によってはなおさらである。人への感染という思考を敢えて想像しないインシビル(要するに无礼)な観光客は、脆弱な医疗环境下にある离岛では全くもって歓迎できない侵入者である。愿わくば、空港内に独自の関所を设けたい気分であろうし、実际に観光客の往来不可とした岛もある。

しかしインシビリティへの怒りや心配から人の権利への制限措置が支持されるとするなら、それはそれで怖いことのようにも思う。人と人との立ち振る舞いの中に、统治者が介入できる事実を作ってしまうからである。被治者间のインシビルな问题の解决を统治者に委ね続けれてしまえば、自らが自らを律する思考を自らが放弃することへとつながってゆく。他者への节度ある立ち振る舞いを自らに课すシビリティがそれらを他者に押し付けるシビリティへと変容してしまうからである。

本来、シビリティには市民が市民の主(あるじ)であるという公理もしくは规范が根付いているはずである。しかしシビリティを自分ではなく他人に求めるようになると、统治者侧の権力に頼ることになり、结果的には当该権力の増大を许すことにもなりかねない。仮に统治者集団が、一般市民たる主(あるじ)の侍女から主の主へと逆転すべくシビリティを锦の御旗に掲げれば、シビリティの彻底によって民主主义の根干がひっくり返されてしまうかもしれない。敢えて极论をいえば、非常时というのは、民主主义に根付いた规范がより一层求められ、それゆえに全体主义を涌出させる胁威も発现するということである。シビリティには、その言叶の持つ尊い自律性が他者への强制を正当化させる危険性がどうも孕んでいるようだ。

自律か従顺か

我々は今、自らのシビリティを自身に问い、我々の连帯でこの状况の打破を求められている。我々という言叶の重みを意识したら、あの有名なエスニック?ジョークを思い出した。いわゆる沉没船ジョークで、沉没しつつある船に乗り合わせた异なる国籍の人々が「どう説得すれば海へ飞び込んでくれるのか」、この问いの答えにまつわる话である。日本人については「皆が飞び込んでいるといえば飞び込む」という行动様式をもつ国民として、ここではカテゴライズされている。ステレオタイプの话ではあるが、経験的には腹には落ちる。我々は、何か问题が生じたら统治者集団(特に行政)の不作為をまずは批判する倾向がある。公権力への依存が强い証左といえよう。それゆえに个々の意思决定においては、周り、特に上席者の颜色を窥う、もしくは场の空気を読むことが暗黙的な美徳となり、集団主义的な意思决定が形成されてゆくのだろう。

とはいえ、欧米ほど権力に抗うことに惯れていない、すなわち公権力に頼るオベイダント(要は従顺)な国民性は、强制よりも启発で状况打破に临むことができるような気もする。しかし従顺で同调圧力に弱いがゆえに、罚则を伴う强制补偿を伴う启発よりも効力を発挥するようにも思う。どちらにしても统治者集団に解决を委ねるわけだが、できれば、统治者による积极介入に頼らずシビルな社会を维持したいし、そうできる国民性の筈なのだが、统治者の积极介入も简単に受容してしまう一面も我々には内在しているようである。

米国の南部では、外出禁止令の撤回を诉える、统治者侧への暴力的デモが起きている。ちなみに米国人は「ヒーローになれる」と囁かれると、喜んで海へ飞び込むらしい。果たしてそのようなデモは个々のシビリティ夺回のためなのか、自らの欲への追求のためなのか???。日本でそれが起きそうもない(と笔者は思っている)のは、皆がシビルだからなのか、単なる集団主义者に过ぎないからなのか???。シビルであってもその源にあるは自律と従顺という、まるで相反するような规律があるようである。それがシビリティの陥穽の源なのかもしれない。

统治者のシビリティ

我が国に関わらず、これからの政策的な動向は今しばらく予測できない。ただどの国においても経験したことのない意思決定が求められることになるであろう。相当な覚悟も要するだろう。社会のシビリティを維持するため、統治者集団は今後多くの制約を被治者側に課すかもしれない。その判断の功罪は歴史が証明するのだろうが、国民性が何であれ、我々は今後、その意思決定過程を十二分に注視する必要がある。世界の賢者は、被治者による統治者の厳しい監視や被治者の社会的エンパワメントの重要性を訴えている。統治者側への依存が高まれば統治者側の力は自ずと増大してゆく。被治者と統治者のパワーバランスをどう健全に保つか、統治者集団の暴走をどう防ぐか、これらがポスト?コロナにおける公共ガバナンスの大きな宿題になりそうだ。統治者側のシビリティ、被治者側からの信頼が問われてくるのである。そのためには平時から尊敬を得られる政(まつりごと)をおこなうことが求められる。どの方策を選択しても良い面もあれば悪い面もある。統治者はスピードある決断が要求される。だからこそ被治者には論理的かつ丁寧な説明もまた要求される。政策決定にかかる徹底した情报公开と政策の断続的検証である。それによって統治者側は、スピード運転でも安心できるという信頼感を被治者側から獲得しておかねばならない。

残念ながらわが国では非常事态下にもかかわらず、歌舞伎町で游兴したりマスク転売疑惑をかけられたりする、一般市民には理解できない个々の统治者が出现している。一部の被治者が3密軽视の行动をとっているとはいえ、统治者のインシビルな行动をいかなる被治者も受容することはないだろう。これが「氷山の一角」なのか「はずれ値的行為」なのかはわからないが、统治者に対する不信感を助长させたことには间违いはない。冒头でも触れたようにシビリティは我々の问题でもあるのだが、今だからこそ个々の统治者には、社会的にも政治的にもシビリティを自覚し、またそれを行动で示してほしい、と强く思う。