&苍产蝉辫;心の病気は身体の病気と违って実体がありません。ここで「実体がない」というのは、身体の病気のように、数値や画像によって病気の根拠を示せないという意味です。したがって、どこまでが健康でどこから病気という线引きが难しい。とくに、子どもは日々成长する存在ですから、心のありかたも病気の形もうつろいやすく、つかまえにくいものです。
では、精神科医はどうやって病気を诊断しているのでしょう。
まず、この図を见てください。この叁角が一人の人间、この四角の中がその人を取り巻く「环境」を表しています。人间は生き物ですから、「身体」をベースに生きていて、その行动は个人の「パーソナリティ」を反映しています。その间を取り持つ重要な臓器が「脳」ですね。脳には身体の内外からの情报が上がってきます。内からでいえば、たとえば痛み。外からでいえば、视覚、聴覚、皮肤覚などを通して入ってくる外部の情报です。
いっぽうで、脳は感情や意思を生み出し、意识的あるいは无意识的に个人の行动を决定します。これはパーソナリティとして表に现れます。私たちは、それを见て「ははあ、この人はこういう人なんだな」と、人となりを判断しているわけですね。
さて、人间は环境からの刺激に絶えず反応を繰り返して生きていますが、刺激の种类や大きさによって、この反応は通常レベルから大きく逸脱することがあります。また逆に、环境に変化がなくても、身体(脳を含む)のほうに不具合があると同様のことが起きます。
私たち精神科の医者が病気を疑うのは、このように个人の反応が通常のレベルから大きく逸脱したときです。具体的には、検査しても原因のみつからない身体の症状や、ふだんはみられない奇妙な言动が见られたときです。
これら、われわれが「症状」と呼ぶものが、特徴的な経过に沿ってひとつのまとまりを见せた场合、そして、そのことによって本人が苦しみ周囲も対応に苦虑する场合に、その状态を○○病だの××障害だのと名づけているわけです。ですから、精神科の诊断というのは、一种の申し合わせ、约束事のようなものです。
もちろん、この约束事は近代精神医学の歴史に里付けられていますから、それなりの信用性はあります。疫学や脳神経科学などの研究データにも基づいています。しかし、冒头に述べたように、いまだに実体がない病気が大部分です。
上に「个人の反応が通常レベルから大きく逸脱したとき」に病気を疑うと书きましたが、ここに疑问を持つ人もいるでしょう。「通常」とか「大きく」とかってどうやって决めるの? なにか物差しがあるの?
当然の疑问ですね。もちろん物差しなどはありません。精神科医が「约束事」を基準に、それぞれ个人の判断に従って决めているのです。
ですから、当然のことながら、医者によって诊断に违いが出ることがあります。これは精神医学の成り立ちからいって、ある程度しかたのないことなのです。今后、医学の进歩によって少しずつ解消される问题かと思いますが、现时点ではこれが现実です。
ですから、精神科にかかるときは、こういう事情を知っておいた方がいい。そして、その医者の态度や説明に纳得できなかったときは、これがこの人の「物差し」なんだなと考えて、ほかの医者の意见も闻いてみたらいいと思います。いわゆるセカンドオピニオンですね。
诊断の正しさもさることながら、自分の信用できる医者を见つけること。精神科にかかるにあたっては、それがいちばん大切なことかもしれません。