本学部の小田ゼミナールは10月18日、19日の2日间で东电福岛第一原発事故被灾地のフィールドワークを実施しました。
以下、ゼミ生による报告记事を掲载します。
小田ゼミナールは10月18日、19日の2日间で东电福岛第一原発事故被灾地のフィールドワークを実施した。福岛県の浜通りを中心に、楢叶町、富冈町、南相马市を访问。东日本大震灾から约3年半以上経过し、多くの人は被灾地が復兴へ向かっているように思っているかもしれない。确かに、多くの被灾地では復兴に向けて一歩ずつ进んでいるが、私たちが访れた原発被灾地では一向に进んでいない现状である。放射线量が高い地区では復兴作业が限られ、また线量が低い地域であってもマンパワーが不足しているため、私たちが考えているような復兴は进んでいない。
合宿1日目、楢叶町にあるJヴィレッジに向かった。ここは、サッカー日本代表の练习场として使われていた、日本最大规模のトレーニング施设だ。现在は本来の活动は停止し、东京电力の福岛復兴本社となっている。ここで私たちは东京电力代表执行役副社长兼福岛復兴本社代表の石崎芳行さんにお话を伺うことができた。事故が起きた原発の状况や今后の计画について详しく説明して顶き、私たちの质问にも丁寧にお答え顶いた。代表の方に直々に登坛して顶けたということもあり、沢山の质疑をすることができ、メディアには露出しない内容にも踏み込むことができた。
闯ヴィレッジの视察と説明会を终えた私たちは、旧富冈町役场へと向かい、役场の方に富冈町を案内して顶いた。富冈町は未だに「帰宅困难区域」「居住制限区域」が大半を占めている地域だ。私たちは特别に文化交流センター内に入らせてもらった。中に入ると床は朽ち果て、天井は腐食しており所々で崩落が见られる。2阶には「灾害対策本部」と手书きで书いてある看板があり、その奥の部屋には物が散乱していた。この空间は『あの日』で时间が止まってしまっている。机の上には被害状况のメモ、周辺地図、手が付けられておらず黒くなったおにぎりなどが散乱していた。ホワイトボードには行方不明者、死亡者の名前などが生々しく书かれていた。窓に目を向けるとカーテンが半分なくなっていた。役场の方によれば、寒さをしのぐためにカーテンを引きちぎって使ったのだという。
一行はJR常磐线富冈駅へ向かった。駅舎はすべて流され、ホームだけが残っている。周囲にも廃墟と化した家、大破した自动车などが当时のまま放置されている。谁もが言叶を失い、震灾被害を肌で実感した。役场の方によると、「来年から区画整备が始まる」そうで、震灾当时の空気を感じることができる场所は今年でなくなってしまう。そういった意味でも、この时期にフィールドワークできたことは意义深い。
合宿2日目、震灾前から富冈町の観光名所として有名であった夜ノ森へ向かった。ここには立派な桜并木があり、毎春、賑わっていた场所だ。现在は「帰宅困难区域」との境になっており、人影は见えず静寂に包まれている。
私たちは一ヶ月前に全线开通したばかりの国道6号线を利用して南相马市へと向かった。「帰宅困难区域」の中で唯一通ることができる道で规制も厳しい。自动车以外の通过は禁止されており、この区域内では降车はもちろん停车もしてはならない。走行中、廃炉中の福岛第一原子力発电所の一部をみることができた。
南相马市ではボランティアガイドの安部あきこさんに案内して顶いた。南相马市は特に津波被害が甚大で海岸线から约2キロ近まで被害が及んだ。安部さんは当时の状况を、「津波はナイアガラの滝のようだったといいますが、本当にそうでした。」と语る。「海岸线には松が生い茂っていた」ということだが、すべて流されてしまい今ではまったくの更地となっている。また、安部さんに原発について质问すると、「ここ(南相马市)にも震灾が起きる前に原発を建てる计画があったんです。最初は反対派が多かったんですけど、ひとりまたひとりと賛成派になっていきましたね。」と悲しそうに语った。
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今回のフィールドワークは、“実际に被灾地へ赴き、现场でしか感じることができないことを体験し、より强い问题意识を持つ”ことを目的としたものであった。无人の街と人で賑わう街。復兴が进まない街と復兴が进む街。対照的な街を访れ、様々な立场の方にお话を伺うことで被灾地に潜む多くの问题を実感することができた。
(文?情报コミュニケーション学部3年 藤川光)
以 上