川岛ゼミナールによる福岛県新地町での活动报告(9月2日~9月5日)
2014年09月30日
明治大学 震灾復兴支援センター
村上さまからの纸芝居に関するご説明
建设が进む常磐线
试験渔业へ向かう船上
川岛ゼミナールの学生から、福岛県の新地町で行った活动について、寄稿がありましたので绍介します。
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私たち川岛ゼミナール3年生3人は、9月2日~9月5日の期间、福岛県新地町にゼミナールの取材活动并びに、新地町役场と「ふるさと颁惭」の作成のために取材に行きました。
初日9月2日は前回も访れた町内の小川仮设住宅を访问しました。同仮设では、6月14日の「」にも登坛顶いた村上美保子さまにお话を伺いました。
村上さまには新地町の古い説话を伝える纸芝居を読んでいただきました。新地町に古くから根付く互助の精神が、震灾后の復旧?復兴に际して大きな役割を果たしたという话を闻いて、深い感铭を受けました。また、东北各県の被灾箇所を回る「东北お遍路」の构想についても伺い、新たな被灾记忆伝承の可能性を教えて顶きました。
翌9月3日はふるさと颁惭の题材用に、町内の「いっぱい清水」や「くるめがすりの家」、「諏访神社」などを自転车で回り撮影しました。その后、常磐线の復旧工事を取材。津波により流出した常磐线は现在、山元~新地で建设が进められています。以前よりも内陆侧に线路を移転し、震灾の教训から道路とは立体交差化すべく高架での建设が进められていました。新たな造成が急ピッチで进められています。
そして、海岸沿いに自転车を走らせると宫城県山元町へと着きました。山元町も津波で大きな被害が出た箇所ですが、こちらでは海岸復旧工事が国土交通省管辖(新地町は福岛県管辖)のため、非常に大きな防波堤が完成していました。生憎の曇天のため、时化模様の海はもの悲しさを感じさせ、いまだ残る爪痕は津波の恐怖を静かに物语っていました。
しばらく滞在した后、新地町へ海岸线沿いに戻ると、钓师浜へと出ました。钓师浜では前回访れた际(8月23日~8月26日)よりも大规模に復旧造成工事が进められておりました。残っていた被灾した道路标识类は撤去されており、以前と姿は大きく変わっていました。震灾遗构物が撤去され、防波堤工事が进むのは良いことですが、震灾被害を伝えるモノを全て失くしてしまうのは果たして正解なのか、难しい问题です。
9月4日は小川仮设でもお世话になっている新地町の渔师さんに、试験渔业への乗船を许可されたので、早朝4时から钓师渔港へと行きました。いざ乗船し、いよいよ出港というところで、冲が非常に时化ていて危険ということで渔が取りやめとなりました。私たちもとても残念でしたが、渔师さんの働く姿を间近で见られただけでも感动しました。また次回、同行させていただく予定です。
午后は、株式会社ユニークテープさんで、被灾写真の修復作业のボランティアをされている佐々木纯さまに作业场を案内して顶きました。东日本大震灾では数多くの写真が流され、汚れてしまいました。これら写真やアルバムなどをクリーニング?修復し、持ち主に譲渡する作业について教えて顶きました。人々の一度は失われてしまった思い出の品が、また再びその人に希望を与えます。また、不幸にも亡くなってしまった家族の写真を持ちこまれる方も多いようで、一切が流されてしまった方にとっては大きな救いになっているのではないかと感じました。写真はただの记録だけでなく人々の気持ちを繋ぐものなのだと教えて顶いたように思います。
このような素晴らしい活动ですが、消耗品が尽きると终わってしまうそうです。ぜひ、他の形であってもこうした活动が行われていくといいなと思います。
最终日の9月5日は新地町役场との打ち合わせの后、新地町児童馆を访问。元気な子供たちと出会いました。そして、正午の町内放送の时刻に合わせて渡辺病院の屋上に登らせて顶き、町内风景を撮影しました。その后はお世话になった小川仮设住宅を后にし、帰京となりました。
今回の访问だけでなく、この夏の3回の新地町取材を通して感じたことは、被灾地は常に変わっているということです。行くたびに海岸线では工事が进んでおり、以前の姿と変わっています。ですが、海の问题は変わりません。现在も原発事故の影响で本格的な渔业の操业はできませんし、风评被害も根强く残っているようです。原発事故の収束は相当年数かかります。原発事故?补偿金の问题?风评被害が非常に复雑に络み合い、渔师さんの今后?福岛県水产业の今后は先行きが不透明です。そしてこのことはどれだけの人が感じているでしょうか?
私たちは「伝える」という行為で、このことを世の中に呼びかけていきたいと考えています。10月19日に行われるでは、映像の発表を行いますので、皆さんに来て顶き、少しでも海の问题について考えて顶けたらと思っています。
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私たち川岛ゼミナール3年生3人は、9月2日~9月5日の期间、福岛県新地町にゼミナールの取材活动并びに、新地町役场と「ふるさと颁惭」の作成のために取材に行きました。
初日9月2日は前回も访れた町内の小川仮设住宅を访问しました。同仮设では、6月14日の「」にも登坛顶いた村上美保子さまにお话を伺いました。
村上さまには新地町の古い説话を伝える纸芝居を読んでいただきました。新地町に古くから根付く互助の精神が、震灾后の復旧?復兴に际して大きな役割を果たしたという话を闻いて、深い感铭を受けました。また、东北各県の被灾箇所を回る「东北お遍路」の构想についても伺い、新たな被灾记忆伝承の可能性を教えて顶きました。
翌9月3日はふるさと颁惭の题材用に、町内の「いっぱい清水」や「くるめがすりの家」、「諏访神社」などを自転车で回り撮影しました。その后、常磐线の復旧工事を取材。津波により流出した常磐线は现在、山元~新地で建设が进められています。以前よりも内陆侧に线路を移転し、震灾の教训から道路とは立体交差化すべく高架での建设が进められていました。新たな造成が急ピッチで进められています。
そして、海岸沿いに自転车を走らせると宫城県山元町へと着きました。山元町も津波で大きな被害が出た箇所ですが、こちらでは海岸復旧工事が国土交通省管辖(新地町は福岛県管辖)のため、非常に大きな防波堤が完成していました。生憎の曇天のため、时化模様の海はもの悲しさを感じさせ、いまだ残る爪痕は津波の恐怖を静かに物语っていました。
しばらく滞在した后、新地町へ海岸线沿いに戻ると、钓师浜へと出ました。钓师浜では前回访れた际(8月23日~8月26日)よりも大规模に復旧造成工事が进められておりました。残っていた被灾した道路标识类は撤去されており、以前と姿は大きく変わっていました。震灾遗构物が撤去され、防波堤工事が进むのは良いことですが、震灾被害を伝えるモノを全て失くしてしまうのは果たして正解なのか、难しい问题です。
9月4日は小川仮设でもお世话になっている新地町の渔师さんに、试験渔业への乗船を许可されたので、早朝4时から钓师渔港へと行きました。いざ乗船し、いよいよ出港というところで、冲が非常に时化ていて危険ということで渔が取りやめとなりました。私たちもとても残念でしたが、渔师さんの働く姿を间近で见られただけでも感动しました。また次回、同行させていただく予定です。
午后は、株式会社ユニークテープさんで、被灾写真の修復作业のボランティアをされている佐々木纯さまに作业场を案内して顶きました。东日本大震灾では数多くの写真が流され、汚れてしまいました。これら写真やアルバムなどをクリーニング?修復し、持ち主に譲渡する作业について教えて顶きました。人々の一度は失われてしまった思い出の品が、また再びその人に希望を与えます。また、不幸にも亡くなってしまった家族の写真を持ちこまれる方も多いようで、一切が流されてしまった方にとっては大きな救いになっているのではないかと感じました。写真はただの记録だけでなく人々の気持ちを繋ぐものなのだと教えて顶いたように思います。
このような素晴らしい活动ですが、消耗品が尽きると终わってしまうそうです。ぜひ、他の形であってもこうした活动が行われていくといいなと思います。
最终日の9月5日は新地町役场との打ち合わせの后、新地町児童馆を访问。元気な子供たちと出会いました。そして、正午の町内放送の时刻に合わせて渡辺病院の屋上に登らせて顶き、町内风景を撮影しました。その后はお世话になった小川仮设住宅を后にし、帰京となりました。
今回の访问だけでなく、この夏の3回の新地町取材を通して感じたことは、被灾地は常に変わっているということです。行くたびに海岸线では工事が进んでおり、以前の姿と変わっています。ですが、海の问题は変わりません。现在も原発事故の影响で本格的な渔业の操业はできませんし、风评被害も根强く残っているようです。原発事故の収束は相当年数かかります。原発事故?补偿金の问题?风评被害が非常に复雑に络み合い、渔师さんの今后?福岛県水产业の今后は先行きが不透明です。そしてこのことはどれだけの人が感じているでしょうか?
私たちは「伝える」という行為で、このことを世の中に呼びかけていきたいと考えています。10月19日に行われるでは、映像の発表を行いますので、皆さんに来て顶き、少しでも海の问题について考えて顶けたらと思っています。
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情报コミュニケ—ション学部 川岛ゼミナール
3年 浦壁 周平
情报コミュニケ—ション学部 川岛ゼミナール
3年 浦壁 周平