宫城県女川町での东日本大震灾ボランティア活动报告
2016年04月12日
明治大学 震灾復兴支援センター
本学商学部を今春卒业した学生から、在学中における东日本大震灾復兴支援ボランティア活动に関して寄稿がありましたのでご绍介いたします。
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明治大学商学部を今春卒业した谷口优太です。东北での復兴支援活动において、明治大学には多大なるご支援とご协力をいただきました。この场をお借りしてその活动の一部をご报告させていただきます。
2011年春。まだ、寒さが残る中、私は明治大学に入学しました。震灾によって入学式は无くなり、授业开始も2ヶ月近く延期される。そのような状况で私の大学生活はスタートしました。
「何かできることは何だろうか?」
というような気持ちとともに、私の足は自然と东北に向いていました。卒业を迎え改めて振り返ると、これが社会に対する「问题意识」とも呼ばれるものだったのでしょうか。しかしながら、あの时は、まだまだ、そのような崇高な社会性の高い気持ちなどではなく、まるで何か隣のクラスに来た転校生を见に行く、そんな「漠然とした兴味」だったような気がします。
东北では多くの方々に多大なるご协力をいただき、様々な活动に取り组みました。ここでは、2015年に実施した「宫城県女川町でのサマースクール」について报告させていただきます。
2015年8月14日?8月21日にかけて、高校生向けのサマースクールを開催いたしました。名前は「TOMODACHI HLAB TOHOKU 2015」です。HLABとは、「高校生の主体的な進路選択をサポートする」ことをミッションとし、2011年度に立ち上がった一般社団法人です。本サマースクールは米日カウンシルとTOMODACHI コンビニ 基金(ファミリーマート/ローソン)のご支援のもと実施されました。
サマースクールには、全国からの高校生が60名(内半数の30名が岩手?宫城?福岛の3県から)と、日本人大学生30名、ハーバード大学、コロンビア大学、ワシントン州立大学などの海外大学生が15名参加しました。
サマースクールでは、高校生は午前中に「セミナー」と呼ばれる英语での少人数授业を受讲しました。セミナーは、海外大学で新入生を対象にして行われる「フレッシュマンセミナー」を模したもので、経済学や社会学という学问から、宇宙工学、心理学などまで幅広い分野について高校生は学びました。
午後には講演会やワークショップなどに参加しました。講演会では小泉進次郎 復興担当政務官(当時)にご講演を頂きました。講演の中で進次郎氏は「もしも、今生きている世界で一つ変えることができるのであれば、何を変えますか?」という高校生からの質問に「自分自身(myself)」と答えられ、直面する様々な出来事に対して「自分事」として向き合うことの大切さを伝えてくださいました。
夜には、地元の方々をゲストとしてお招きした「フリーインタラクション」と呼ばれる対话企画が设定されており、高校生は女川や东北で活跃される社会人の皆様と膝を交えながら言叶を交わしていました。ゲストとして参加してくださったアスヘノキボウ理事は「苦しいことでも信念を持ってやり続ければ必ず报われる」とご自身の経験に基づいた热い言叶を高校生と交わしておられました。
また、宿泊施设となったトレーラー型の宿泊施设「贰尝贵础尝翱」では、毎晩のように高校生と大学生が膝と膝を突き合わせて、自分の将来や今抱えている悩みなどについて対话を重ねました。高校生たちは、时には高校生同士で、时には大学生からアドバイスをもらいながら、己を省みていました。また、大学生も伟そうにアドバイスをするだけではなく、高校生や社会人とのコミュニケーションの中で、高校时代の自分や、近い将来の自分を想像し、自分自身について探究していました。年齢、国籍、宗教などの违いを超え、目の前の人を一人の人として认め、お互いを尊敬し合える関係が、サマースクール期间を通じて筑かれていきました。
最终日、女川小学校で行われた闭会式では女川町教育长から「女川に来てくれてありがとう。またいつでも帰ってきてください」と暖かいはなむけのお言叶をいただき、高校生と大学生は会场をあとにしました。サマースクールからすでに8ヶ月が経とうとしていますが、今でもなお参加者同士のネットワークは継続されています。
「被災地」 という一言でまだまだ表現されがちな東北地域ですが、私にとって東北とは「被災地」ではなく「東北」という一つの地域です。
震灾前、「被灾地」という场所はなく、そこはただ「鱼の美味しい街」でした。
震灾前、「被灾地」という场所はなく、そこはただ「星空が綺丽な街」でした。
震灾前、「被灾地」という场所はなく、そこはただ「心温かい人の街」でした。
そして、今私が週末になって帰りたいなと思うのは「女川町」です。被灾地ではありません。
震灾によって多くの方が亡くなり、建物が流され、多くのものを失った街が东北にはありました。しかし、私の记忆にあるのは、壊れた建物でも真っさらな土地でもなく、目に见えない「何か」でした。「つながり」「地縁」「绊」など、それを表现する言叶はたくさんあるかもしれません。言い表すのであれば、私にとってそれは「あたたかさ」です。ふと、この文章を打ちながら我に帰り、あたりに目を向けています。
戸棚には、女川でサマースクールの际に购入した携帯の充电器。
自习机には、南叁陆で农业支援をする际に购入した目覚まし时计。
クローゼットには、石巻の寒さに耐えられなくなり购入したお気に入りのジャケット。
改めて振り返るまでもなく、自分の大学生活が如何に东北と関わっていたのか、そして大学生活を通じて、多くの学びを东北で得ていたのかということに気付かされます。
最后になりますが、东北での活动をご支援してくださいました皆様、特にゼミ活动が忙しい中、东北での活动に多大なる御理解をいただいた、商学部の鸟居先生、柳泽先生。私の年间30回近くに上る东日本大震灾復兴支援ボランティア活动助成金の申请を滞りなく受领してくださった、和泉、骏河台のボランティアセンター、震灾復兴支援センター事务局の皆様には心より感谢しております。
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明治大学商学部を今春卒业した谷口优太です。东北での復兴支援活动において、明治大学には多大なるご支援とご协力をいただきました。この场をお借りしてその活动の一部をご报告させていただきます。
2011年春。まだ、寒さが残る中、私は明治大学に入学しました。震灾によって入学式は无くなり、授业开始も2ヶ月近く延期される。そのような状况で私の大学生活はスタートしました。
「何かできることは何だろうか?」
というような気持ちとともに、私の足は自然と东北に向いていました。卒业を迎え改めて振り返ると、これが社会に対する「问题意识」とも呼ばれるものだったのでしょうか。しかしながら、あの时は、まだまだ、そのような崇高な社会性の高い気持ちなどではなく、まるで何か隣のクラスに来た転校生を见に行く、そんな「漠然とした兴味」だったような気がします。
东北では多くの方々に多大なるご协力をいただき、様々な活动に取り组みました。ここでは、2015年に実施した「宫城県女川町でのサマースクール」について报告させていただきます。
2015年8月14日?8月21日にかけて、高校生向けのサマースクールを開催いたしました。名前は「TOMODACHI HLAB TOHOKU 2015」です。HLABとは、「高校生の主体的な進路選択をサポートする」ことをミッションとし、2011年度に立ち上がった一般社団法人です。本サマースクールは米日カウンシルとTOMODACHI コンビニ 基金(ファミリーマート/ローソン)のご支援のもと実施されました。
サマースクールには、全国からの高校生が60名(内半数の30名が岩手?宫城?福岛の3県から)と、日本人大学生30名、ハーバード大学、コロンビア大学、ワシントン州立大学などの海外大学生が15名参加しました。
サマースクールでは、高校生は午前中に「セミナー」と呼ばれる英语での少人数授业を受讲しました。セミナーは、海外大学で新入生を対象にして行われる「フレッシュマンセミナー」を模したもので、経済学や社会学という学问から、宇宙工学、心理学などまで幅広い分野について高校生は学びました。
午後には講演会やワークショップなどに参加しました。講演会では小泉進次郎 復興担当政務官(当時)にご講演を頂きました。講演の中で進次郎氏は「もしも、今生きている世界で一つ変えることができるのであれば、何を変えますか?」という高校生からの質問に「自分自身(myself)」と答えられ、直面する様々な出来事に対して「自分事」として向き合うことの大切さを伝えてくださいました。
夜には、地元の方々をゲストとしてお招きした「フリーインタラクション」と呼ばれる対话企画が设定されており、高校生は女川や东北で活跃される社会人の皆様と膝を交えながら言叶を交わしていました。ゲストとして参加してくださったアスヘノキボウ理事は「苦しいことでも信念を持ってやり続ければ必ず报われる」とご自身の経験に基づいた热い言叶を高校生と交わしておられました。
また、宿泊施设となったトレーラー型の宿泊施设「贰尝贵础尝翱」では、毎晩のように高校生と大学生が膝と膝を突き合わせて、自分の将来や今抱えている悩みなどについて対话を重ねました。高校生たちは、时には高校生同士で、时には大学生からアドバイスをもらいながら、己を省みていました。また、大学生も伟そうにアドバイスをするだけではなく、高校生や社会人とのコミュニケーションの中で、高校时代の自分や、近い将来の自分を想像し、自分自身について探究していました。年齢、国籍、宗教などの违いを超え、目の前の人を一人の人として认め、お互いを尊敬し合える関係が、サマースクール期间を通じて筑かれていきました。
最终日、女川小学校で行われた闭会式では女川町教育长から「女川に来てくれてありがとう。またいつでも帰ってきてください」と暖かいはなむけのお言叶をいただき、高校生と大学生は会场をあとにしました。サマースクールからすでに8ヶ月が経とうとしていますが、今でもなお参加者同士のネットワークは継続されています。
「被災地」 という一言でまだまだ表現されがちな東北地域ですが、私にとって東北とは「被災地」ではなく「東北」という一つの地域です。
震灾前、「被灾地」という场所はなく、そこはただ「鱼の美味しい街」でした。
震灾前、「被灾地」という场所はなく、そこはただ「星空が綺丽な街」でした。
震灾前、「被灾地」という场所はなく、そこはただ「心温かい人の街」でした。
そして、今私が週末になって帰りたいなと思うのは「女川町」です。被灾地ではありません。
震灾によって多くの方が亡くなり、建物が流され、多くのものを失った街が东北にはありました。しかし、私の记忆にあるのは、壊れた建物でも真っさらな土地でもなく、目に见えない「何か」でした。「つながり」「地縁」「绊」など、それを表现する言叶はたくさんあるかもしれません。言い表すのであれば、私にとってそれは「あたたかさ」です。ふと、この文章を打ちながら我に帰り、あたりに目を向けています。
戸棚には、女川でサマースクールの际に购入した携帯の充电器。
自习机には、南叁陆で农业支援をする际に购入した目覚まし时计。
クローゼットには、石巻の寒さに耐えられなくなり购入したお気に入りのジャケット。
改めて振り返るまでもなく、自分の大学生活が如何に东北と関わっていたのか、そして大学生活を通じて、多くの学びを东北で得ていたのかということに気付かされます。
最后になりますが、东北での活动をご支援してくださいました皆様、特にゼミ活动が忙しい中、东北での活动に多大なる御理解をいただいた、商学部の鸟居先生、柳泽先生。私の年间30回近くに上る东日本大震灾復兴支援ボランティア活动助成金の申请を滞りなく受领してくださった、和泉、骏河台のボランティアセンター、震灾復兴支援センター事务局の皆様には心より感谢しております。
商学部卒业 谷口 优太