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明治大学の成り立ちと创立者たち

前史(创立者たち)

左から岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操

明治法律学校、のちの明治大学は岸本辰雄?宫城浩蔵?矢代操によって创立された。岸本は鸟取藩、宫城は天童藩、矢代は鯖江藩といったように3人とも地方、それもかなり江戸から隔たった藩内で、しかも禄高が低い士族の家に、嘉永年间に生まれ、育った。
やがて、彼らは幕末维新の动乱と変革の中、明治政府の命をうけた藩の选抜生(贡进生)として上京した。そして彼らが出会ったところは明法寮(のちに司法省法学校)であった。同校は司法省が设立したものであり、司法官僚を速成することが目的であった。この学校で「お雇い外国人」教师のボワソナードらからフランス法学を学んだ彼らは、それぞれの道を歩んだ。

すなわち、岸本はフランスに留学し、帰国后は判事に、また宫城も同国に留学し、帰国后は検事になった。矢代は元老院に就职し、その傍ら法律私塾の讲法学社(北畠道竜设立)等の経営と教育に当たった。
 

明治法律学校の诞生

司法省法学校在学以来、きわめて亲しい间柄の创立者3人は、本务は异なりながらも、常に最新、かつ本格的な法律教育をすることが脳里にあった。

「明治大学発祥の地」記念碑

一方、讲法学社の设置者の経営姿势に不満をもっていた学生らは退学し、その内、十数名は神田小川町の长屋で自主学习をしていた。彼らはやがて、以前、同社で讲师をしていた岸本?宫城に新しい法律学校の开校を愿った。岸本らは友人であり、讲法学社において学生に慕われていた矢代を诱い、东京府に私立法律学校设置愿いを提出した。そして、ついに1881(明治14)年1月17日、麹町区の数寄屋桥の一角(现在の有楽町?数寄屋桥交差点近く)?岛原藩邸跡に法学校を开校した。时あたかも自由民権の风潮の真っ只中、明治法律学校は「権利自由」を校训とし、フランス法を中心として教育に当たっていった。
同校は资金难に苦しむのであるが、志愿者は日に日に急増していった。そのため、ついに1886(同19)年12月11日、神田南甲贺町に自前の校舎を新筑し、移転した。
しかし、その后の同校の歩みは必ずしも顺调ではない。特别监督条规等により东京帝国大学の统括?管理下に置かれたり、私学併合を企図されるなどした。いわゆる「私学扑灭」策である。「権利自由」を标榜する本学は特にその标的とされた。また、国策によるドイツ?イギリス法の保护は、やがてフランス法(本学など)と対立を引き起こす。その顶点は民法典施行をめぐる大论争であるが、结果としてフランス法系は败北した。
 

大学昇格から戦时体制下へ

明治法律学校が大学令による大学(「明治大学」)となったのは1920(大正9)年4月1日のことである。しかし、そこにたどりつくまでには并々ならぬ苦闘と努力があった。学位「明法学士」の発案と授与、専门学校令による「明治大学」认可、法?商?政?文の4学部体制、骏河台移転、大学昇格のための募金运动等々はその代表的な事例である。とにもかくにも教职员?学生?校友らの奋闘努力により、総合大学としての明治大学が成立したのである。

このキャンパスでは留学から帰った新进気鋭の教员、かなりの数に上る留学生、さらには大正デモクラシーを謳歌する学生、そして时には学园騒动に関係する人达といった新たな动きが顕着になってきた。まさに伝统の在野精神?反骨精神を基轴に学园は右に左にと揺れたり、また良きにつけ悪しきにつけ活况を呈していったといえよう。

そのような学园に大打撃を与えたのは関东大震灾(1923?大正12年9月1日)であった。だが、壊灭的な学园の焼き跡にかけつけ、いち早く復旧?復兴に当たったのは教职员はもとより、学生?校友であった。その结果、1928(昭和3)年4月21日には记念馆で復兴の式典を挙行できるまでになった。

しかし、やがて社会は経済不况?军事拡大?テロといった暗云がたちこめ、明治大学もまたファシズムや戦时体制(とくに太平洋戦争)に巻き込まれるようになった。兴亜科の设置や勤労动员?学徒出阵などはその典型的な例である。ただ、その一方、女子教育の拡大、スポーツの振兴、予科の移転(和泉校舎)等々、前向きの侧面が认められたのも事実である。
 

戦后の復兴から新时代へ

本学は1949(昭和24)年2月21日、新制明治大学として认可され、新たな出発をした。学部は法?商?政経?文?工?农の6学部からなり、さらに翌月25日には第2部(夜间制)が设置された。当然、このころは当时の社会状况と同様に、本学内においても大きな戸惑いと混乱が生じた。しかし、その一方、新しい大学をめざして気概と希望にみちていたわけでもある。

その后、本学は生田キャンパスの开设、大学院の拡充、経営学部の新设、さらには新校舎の建设が进められていった。こうした制度と施设设备の拡充は急速に推进されたのであるが、やがて1960年代ころより学内の质的な改革が叫ばれるようになった。例えば専教连改革、学费问题、あるいは全共闘运动等々である。そうした経纬を経て、明治大学は1980(昭和55)年11月4日、创立100周年を祝った。さらに21世纪を迎えた2001(平成13)年11月1日には创立120周年の式典を催したが、この年は创立者生诞150周年も记念して祝贺の行事を行なった。そして、それを契机として今まで以上に、建学の精神に基づき本学の歩みを検証しようとする动きが活発化した。また、それと同时に新しい时代を担う大学としての在り方が急速に求められてきた。