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现在地への再移転(1911?明治41年)
1903(明治36)年、明治法律学校は専门学校令に基づく「明治大学」に改称しました。この时期を境として、南甲贺町校舎はいよいよ手狭になり、もはや増筑では追いつかない状况になりました。1896(明治29)年、猿楽町に第二寄宿舎を新设するとともに元神田中学校校舎を购入して锦町分校としました。その后も南甲贺町校舎の増筑を図るなど、これまでの施设では収容しきれない学生たちのスペースの确保が行われました。しかし本校と分校がバラバラに存在することは非常に不便でした。
1910(明治43)年、明治大学は高等研究科?法?政?商?予科あわせて约3400名、その他高等予备校534名、简易商业学校258名という膨大な学生を抱えるに至っていました。このようなときに、骏河台南甲贺町14?15?16番地(现骏河台一丁目。明治大学リバティタワーおよびアカデミーコモン付近)の旧小松宫邸约3800坪を借りる见通しが立ったことは、大学関係者にとってまさに「一大光明」(「明治大学学报」1910年)でした。
早速大学はこの土地を借用し、新校舎の建筑工事に入りました。そして着工から1年后の1911(明治44)年10月14日、移転新筑なった骏河台キャンパスで、明治大学创立30周年记念及び校舎新筑落成移転式が盛大に挙行されました。
キャンパス内の延建坪は2300坪、建筑中も含めるとキャンパス内の建物は10栋におよびました。有楽町数寄屋桥での创立から30年目に至り、明治大学は现在の骏河台キャンパスの地に移転したのです。
参考文献
明治大学史资料センター编『明治大学の歴史』2015年