教養デザイン ブック?レビュー
教养デザイン研究科関係者の著書紹介
Go Forward
国民とは何か。本书は、「ドイツ」近现代史の事例からこの古くて新しい问いを考える最良の一册であろう。「国民の存在は日々の人民投票である」。本书を読みながら、まず头に浮かんだのは、1882年にフランスの宗教史家エルネスト?ルナンが语ったこの言叶だ。国民とは、人びとの同意、共に生きたいという愿望、また过去の遗产を共有し、それを共同で活用しようとする意志によって作られるものだというルナンの主张である。
しかし、本书はそうしたオーソドックスな国民理解に留まらず、そもそも「国民」や国籍、领域/集合体としての「ドイツ」、「○○语圏」が指し示すものが、ドイツでは、フランスや日本とは大きく异なることを教えてくれる。ドイツ的特殊性(と私には映るもの)が、本书に掲载されたあらゆる论文の叙述から浮かび上がってくるのだ。たとえば、戦后の西ドイツでは、「ドイツ民族に属する者」はドイツ国籍者以外も「国民」の范畴に组み込まれていた事実が、説得的に论じられる(第9章)。国籍制度自体が近代の产物ではあるものの、国籍が国民を规定できないとしたら???。「民族」が国民の境界を左右するという事実を前に、読者は、ドイツにおける「民族」の重みに圧倒され、改めて「国民」概念の多义性を理解するだろう。また、国民国家と○○语圏の関係についても再考を促される。たとえばフランス史においては、「语圏」は一般に植民地拡大の歴史的文脉の中で考察され、その存在は本国の威光の强化に利用されはすれども、国民国家(本国)そのものを揺るがすような力にはほとんどならない。しかし、本书の中で语られるドイツの场合、ドイツ语圏という存在は、地続きヨーロッパ内での人の移动、地理的境界の変动にともなって生まれ、変容し、国民国家と切り离せない、国民国家本体の问题として现れる。つまり本书は、「普遍」「自明」とされがちな、私たちの固定観念に揺さぶりをかけ、问い直す歴史的経験の事例に満ちた本である。
本书では、国家の内部に引かれる境界线にも眼が向けられる。本书の第一部に収められた4本の论文では、近代的な価値规范の形成に伴い生み出される、市民社会にふさわしい人とふさわしくない人とを区别する论理や、他者と自己を分け、人を差异化する社会的実践が分析される。第3章の佐藤公纪「「赦し」から「予防」へ—近代ドイツにおける釈放者扶助の変容」は、「犯罪者」と釈放された受刑者の扱いをめぐる议论を通じて、19世纪后半から20世纪前半のドイツ社会において、犯罪者に向けられる人びとの眼差しがどのように変化したのかを论じる。背景にあるのは医学、精神医学、心理学、犯罪学、教育学などの人间诸科学の発达である。こうした科学に基づく近代的学知は、釈放された受刑者の自立支援を行う际に、「扶助を受けるに値する者/しない者」という境界を筑き上げていく。近代诸科学が人间の分类に热心に取り组み、近代国家の统治论理?技法を支えていたことは比较的よく知られた事実だが、本论文では、そうした近代化の歩みの中でも、前近代的とみなされるキリスト教的価値観、隣人爱に基づく「赦し」の考えが20世纪に入っても消灭することなく、近代的な论理と络まり合いながら、ドイツの釈放者扶助を支えていた点を丁寧に论じている。近代に登场するいくつもの主要な概念や枠组みを问い直す本书の中において、本论文は「世俗化」「福祉国家」の再検讨につながるものとして読むことも可能である。
近代がもたらした人の区分けの仕方、それによって正当化された排除や差别は、21世纪の今をも规定している。「境界」线はどのようにして、谁によって引かれるのか。暴力を伴うその行為の恐ろしさを知る私たちが、歴史から学ぶことは多いだろう。