教養デザイン ブック?レビュー
教养デザイン研究科関係者の著書紹介
Go Forward
他者と触れ合うことは、暴力をもたらす可能性を生み出す。他者との交流は、喜びでもあるが、かえって暴力を呼び込む契机ともなる。人间は他者と関係することと暴力とが分かちがたく结びつくこの世界から逃れるすべはなく、できることは他者と分かち合う喜びが暴力という恐怖に転化する局面を入念に観察し、それをできるだけ精确に记述しようとすることだけだ。それだけが、不可避の暴力をそれでもなお可能な限り回避しようとする抵抗の所作となる。
他方で、この暴力への抵抗は一义的な形态を取ることは决してない。なぜなら、暴力のあり方には、现実世界にはびこる物理的な暴力のみならず、人间関係の不平等から生じる心理的暴力や社会や文化に组み込まれた构造的暴力、さらには文学作品に现れる言説上の暴力に至るまで、ほんの少し考えてみるだけでも多种多様な形态が思い浮かぶからだ。こうした多様な暴力のあり方に対しては、必然的にそれに抵抗する営みも多様なものにならざるを得ない。
本书には、暴力への抵抗の可能性を、一见バラバラに见える问题意识のもとで各々独立した形で追究する论考が収められているが、それはいま述べたような暴力の特质に由来しているからだと言えるかもしれない。そのあり方自体が暴力の多様さや捉えがたさを示しているのだとすれば、本书がこうした形を取らざるを得なかったことも自ずと理解されよう。
本书に収められている多彩な论考のうち、ここでは本研究科教员が执笔した叁つの论文を绍介したい。釜崎太「ドイツの市民社会と文明化の过程—政治と暴力の表象空间としてのサッカー」は、暴力の「自己抑制」(狈.エリアス)の结果成立した「文明化」された社会のなかにおいて、サッカーというスポーツは、暴力が许容される「暴力の飞び地」でありながら、「自己抑制」の机序をも有する场として立ち现れることを指摘している。そのためサッカーは、スポーツの枠を超えて、いわば暴力と非暴力とが絶えずせめぎ合い、更新され続ける市民社会の限界=境界を示すダイナミックな现场となっている。釜崎论文は周到な议论のもと、近年はこのサッカーという「暴力の飞び地」に人种差别という新たな暴力が呼び込まれつつあり、サッカーはもはや政治闘争の场へと変貌していることを指摘する。
岩野卓司「ケアにおける赠与と暴力」は、ケアと赠与の间に本质的な结びつきがあるという洞察から出発している。岩野论文によれば、ケアとは、ケアされる者がケアに先立ってケアする者に与える「根源的な赠与」から出発しており、その応答としての「赠与」が次々と连锁して成立するものであるという。しかし、もしケアが、ケアする者によるケアされる者への「一方的な赠与」だと解されるならば、それがどれほど善意の上に行われていても、それは暴力の契机を呼び込む危険な行為となりうる。このケアの危険性を回避するためには、ケアする者がケアされる者の「叫びや身体の兆候」という「根源的な赠与」に応答できるような、新たな人间の共同性を立ち上げる必要がある。岩野论文は、そう呼びかける。
铃木哲也「暴力と诗的表象—シェイマス?ヒーニーと北アイルランド纷争」は、アイルランドの国民的诗人シェイマス?ヒーニーの着作のなかに现れる、诗と政治との见えざる相克を论じている。ヒーニーは、いわゆる北アイルランド纷争が活発化するなかで、一见政治から背を向けた诗的な営みを実践し続けた。しかしこれは、个别具体的なものを「集団」へと抽象化し、人々を分断する政治の言叶に対し、诗的想像力を通じて人々の「个人性」を回復させる抒情诗の力に赌けた、ヒーニーの抵抗の身振りであった。それは、壮絶な北アイルランドの现実に诗人として真っ向から向き合おうとしたヒーニーの诗的実践そのものだった。铃木论文はここにヒーニーの诗人としての诚実さを见出している。
本书は、「世界は暴力に満ちている」(1页)というこの时代において、暴力のありうべき形态に対する多様な抵抗のあり方を提示する书である。本书がより広范な読者に迎えられることを切に愿っている。