本书は、コリア系アメリカ人の社会学者であるグレイス?M?チョーによる回想録である。巻头の「日本の読者への序文」に、本书のある部分は母の死后「母の统合失调症の社会的ルーツを探る」ために执笔され始めたとある。その母のトラウマは、「韩国でアメリカ人相手のセックスワーカー」であったという秘密であり、それを23歳の时に知った娘の「衝撃と混乱」をいかに癒すか。作者はこれを「亡霊祓い」と记している。そのためには、「ことばの舞台化」が必要であったという。つまり、これらを言语化し「出版」することである。この目的のために、本书は娘の视点から母と家族の苦しみに満ちた歴史が、ほぼ年代を追って记されていく。
母は、1941年に帝国主义时代の大阪で生まれ、第二次世界大戦后に荒廃したコリアに戻り、朝鲜戦争を生きぬき、アメリカ人である年上の男性と関係をもつという「逸脱行為」を理由にアメリカに追放される。しかし、そこは「帝国主义的な暴力に満ちた场所」であり、アジア系の移民女性として、差别的な扱いを受ける。そして、母は父からの顿痴や様々なストレスから引きこもりをしたり、父との离婚と再婚を繰り返したりした末に妄想型统合失调症を発症してしまう。そして二回の自杀未遂后に亡くなる。
このような过酷な母や家族の歴史を、娘の视点から冷静に描いている。しかし、娘は自らの人生を母とは异なった意义あるものにしょうと大学に入学する。そこで、「ブラウン大学での最初の学期中に、わたしは自分の魂が、身体という物理的な境界线を越えて、限りなく広がる世界に飞びだしていけるような、そんな軽やかな感覚を覚えた。」と书いている。自分が育った「いなかの公立高校」にはなかった、多様な「民族や人种」や同性爱者を公にしている人などがいた。その大学には富裕层との「社会阶级」もあったが、「多元的共有と多様性」の方が胜っていたのである。このような大学生活は、母亲には体験できなかったことである。
この作品で私が一番兴味を引かれたのは、味や食べ物についてのことである。このブラウン大学についても、「大学は、大人の味を覚えさせてくれた」と、味の比喩で表现しているように、味覚の表现が多い。特にそれを感じさせたのは、「第五章 キムチ?ブルース」である。「第二次世界大戦后の一九五〇年代と六〇年代にアメリカにやってきた、韩国出身の军人花嫁たちは、『ここには、食べるものがなにもなかった』と语った。(中略)コリアン料理がないことによって、ホームシックと孤独感が深まったばかりか、身体的な问题も引き起こされた。」と记される。その「コリアン料理」の代表がキムチである。母亲の「(キムチが)なければ生き残れなかったかもしれない。」という言叶にはリアリティがある。キムチこそ、コリアン民族のアイディンティティを保たせてくれるものであった。アメリカにはハンバーガーやホットドック等があったとしても、やはりキムチ等のコリアン料理は、存在そのものとも言える安心感をもたらしたのである。
ところで、この作品のタイトルは『戦争みたいな味がする』(原題:Tastes Like War)である。比喩で語られれているその嫌なものとは、朝鮮戦争中に「際限なく配給された脱脂粉乳」である。アメリカで生活をしている時に、兄夫婦から脱脂粉乳を与えられたが手をつけることはなく、「あの味は耐えられない」「戦争みたいな味がするから」と言う。
娘は母亲の食べない选択を、「彼女にとっては主体性の表现、つまりは巨大な権力构造にたいする、ささやかな抵抗の営みであることに気づいた。」と记す。脱脂粉乳は、権力构造としてのアメリカの食粮支援配给への抵抗を思い出させたのである。
このような食べ物を通して、戦争の时代を生きた母亲の深い闇を表现している。また、戦争、阶级、差别等の中でコリアンの「恨(ハン)」を生きてきた母亲と、アメリカ人の父亲の娘として生きているチョウさんの闇も分析されている。読み终えた时に、深い感动とともに、さらにもっともっと世界の歴史や现実を考えなければならないと思うのである。
本书は430页を越える长编であるが、非常に読みやすい日本语となっていてすらすらと読める。また、私が素晴らしいと思ったのは、非常に数多くの本文に记された訳注である。この訳注に支えられて、アメリカや韩国等の歴史や文化を理解することができた。石山さんのお阴である。是非とも皆さんに、ご一読をお荐めしたい本である。