2015年度 第3回『フランスの女性誌史—诞生から黄金期そして暗黒时代と転换—』
2016年1月21日(木)実施
讲师略歴:江下雅之氏
報告:高馬 京子(情报コミュニケーション学部准教授)
フランス女性誌とは、他国のものと同様、週間、月間に発表される、そのとき限定の女性にとって価値のある情報の詰まった、そして、その時が過ぎてしまったら読み捨てられる運命にある媒体であり、限られた図书馆でしか通年的に保管はされていない。このことを裏返して考えてみると、女性誌を通史的に考察していくとは、まさにその時代、時代の社会状況、風俗、女性、ジェンダーの様子が色濃く反映されている貴重な情報源ということになる。確かに、写真等著作権のきれた女性誌の電子化がフランス国立図书馆で進み、また昨今各有名女性誌が電子版を発行し始めてはいるものの、その両方にも当てはまらないフランス女性誌も多くあり、それを通史的に現物の資料を収集し、考察するということは非常に困難な作業である。すなわち、女性誌とは時代を知る重要な資料でありながらそれを系統立てて資料を見ることは非常に難しいメディアなのである。報告者である江下雅之教授は、社会ネットワーク論、メディア史を専門とされ、長く研究滞在をされていた地、フランスの入手困難な女性誌という貴重な資料の収集を進めながら、そのフランスにおける女性誌史という貴重なご研究をされている。
氏によると、フランス革命は制度面のみならず人々の価値観を大きく変容させ、そのなかで新闻や雑誌などメディアが発达し、女性を主たる読者とする女性誌が発达したのものその时期であり、女性誌の変迁は社会変化を反映しているという。フランス革命の経纬は明治维新を経験した日本社会と比较でき、また、第二次世界大戦は日本社会と同様にフランス社会にとっても大きな転换点となるなど、日仏の社会変化の歴史には共通点が见出されるとし、研究会では、まず18世纪から现代に至るまでのフランスにおける女性誌の歴史を概括し、続いて1960年代后半以降の市场构造の相违を含めて日本と比较することにより、両者の特徴的な状况を考察された。
氏はまずフランス女性誌史の大枠を保守性と政治性に二極化する黎明期、運動から消費へと転換が進む拡大期、復活後に陳腐化する黄金期~暗黒期、読者層のセグメント化が進む転換期の4期に分け提示された。①極端に貧弱だった庶民の衣食住、②布地屋と仕立屋の徹底的な分業体制、③女性ではなく男性がモードの主役、④限定かつ偏在的な出版物の受容といった女性誌に関わるフランスの社会状況として特徴を有した大革命以前と比べ、黎明期にあたる大革命後は、①フランスの当時の社会状況として、②有閑層向け雑誌が伝統価値観を補強、③生活向上と都市化で雑誌への関心拡大、④7月~2月革命間のフェミニスト誌台頭、新しい読者層に急進的なテーマが浸透という特徴がみられるとする。また、第二帝政後の女性誌の拡大期には、①交通と通信技術の発達でプレスが飛躍、②町中に躍り出た女性が需要を一層拡大、③富裕層以外の一般女性がマス市場を形成、④今日的な女性誌の主要な領域が勢ぞろいしたと考察する。また、女性誌の絶頂期から暗黒期にあたる戦後から五月革命時は、①新女性と保守的な女性とが共存し、②5月革命前後には先進的雑誌の陳腐化、③伝統的な実用大衆紙は時代遅れの烙印を押され、④経済危機と新メディアとの競合が圧迫したと分析を提示されている。そして、マーケティングの時代であるとする女性誌における転換期は、①もはや100万部の発行は実現が困難、②闘争的な段階が過ぎ個性尊重の方向、③カテゴリのセグメント化による多様性進展、④オリジナリティや高級感がキーワードであるとしている。さらにインターネットの出現に牽引される高度情報社会を迎えた今日では、フランスでもかつてのような紙媒体のみならず、ファッションブログ(blog de mode)の時代に突入しているとし、フランスにおける女性誌の歴史を入手困難な貴重な資料である女性誌を提示しながら示された。
フランスの女性誌を研究対象とする场合、モードに関する语汇の记号论的调査、女性性形成における女性誌の役割に関するフェミニズム的観点からの调査などみられるが、氏の研究のように21世纪现代のブログまでを射程にいれて社会を映し出す镜としてフランス女性誌の通史をみたものは数少なくメディア史研究において重要な役割を担うと同时に、社会风俗调査资料としてのフランス女性誌の価値の再评価を示す贵重な论考であるといえるだろう。&苍产蝉辫;
氏によると、フランス革命は制度面のみならず人々の価値観を大きく変容させ、そのなかで新闻や雑誌などメディアが発达し、女性を主たる読者とする女性誌が発达したのものその时期であり、女性誌の変迁は社会変化を反映しているという。フランス革命の経纬は明治维新を経験した日本社会と比较でき、また、第二次世界大戦は日本社会と同様にフランス社会にとっても大きな転换点となるなど、日仏の社会変化の歴史には共通点が见出されるとし、研究会では、まず18世纪から现代に至るまでのフランスにおける女性誌の歴史を概括し、続いて1960年代后半以降の市场构造の相违を含めて日本と比较することにより、両者の特徴的な状况を考察された。
氏はまずフランス女性誌史の大枠を保守性と政治性に二極化する黎明期、運動から消費へと転換が進む拡大期、復活後に陳腐化する黄金期~暗黒期、読者層のセグメント化が進む転換期の4期に分け提示された。①極端に貧弱だった庶民の衣食住、②布地屋と仕立屋の徹底的な分業体制、③女性ではなく男性がモードの主役、④限定かつ偏在的な出版物の受容といった女性誌に関わるフランスの社会状況として特徴を有した大革命以前と比べ、黎明期にあたる大革命後は、①フランスの当時の社会状況として、②有閑層向け雑誌が伝統価値観を補強、③生活向上と都市化で雑誌への関心拡大、④7月~2月革命間のフェミニスト誌台頭、新しい読者層に急進的なテーマが浸透という特徴がみられるとする。また、第二帝政後の女性誌の拡大期には、①交通と通信技術の発達でプレスが飛躍、②町中に躍り出た女性が需要を一層拡大、③富裕層以外の一般女性がマス市場を形成、④今日的な女性誌の主要な領域が勢ぞろいしたと考察する。また、女性誌の絶頂期から暗黒期にあたる戦後から五月革命時は、①新女性と保守的な女性とが共存し、②5月革命前後には先進的雑誌の陳腐化、③伝統的な実用大衆紙は時代遅れの烙印を押され、④経済危機と新メディアとの競合が圧迫したと分析を提示されている。そして、マーケティングの時代であるとする女性誌における転換期は、①もはや100万部の発行は実現が困難、②闘争的な段階が過ぎ個性尊重の方向、③カテゴリのセグメント化による多様性進展、④オリジナリティや高級感がキーワードであるとしている。さらにインターネットの出現に牽引される高度情報社会を迎えた今日では、フランスでもかつてのような紙媒体のみならず、ファッションブログ(blog de mode)の時代に突入しているとし、フランスにおける女性誌の歴史を入手困難な貴重な資料である女性誌を提示しながら示された。
フランスの女性誌を研究対象とする场合、モードに関する语汇の记号论的调査、女性性形成における女性誌の役割に関するフェミニズム的観点からの调査などみられるが、氏の研究のように21世纪现代のブログまでを射程にいれて社会を映し出す镜としてフランス女性誌の通史をみたものは数少なくメディア史研究において重要な役割を担うと同时に、社会风俗调査资料としてのフランス女性誌の価値の再评価を示す贵重な论考であるといえるだろう。&苍产蝉辫;
2015年度 第2回『「おたく」とジェンダー』
2015年6月5日(金)実施
讲师略歴:ガルブレイス?パトリック?ウィリアム氏
デューク大学大学院文化人類学科所属。上智大学、テンプル大学非常勤講師。1982年米国アラスカ州生まれ。2004年、モンタナ大学在学中に交換留学生として初来日。その後、東京大学大学院に入学、学業の傍ら2007年から秋葉原ツアーを主催。2012年、東京大学大学院情報学環?学際情報学府博士課程修了。博士(情報学)。著書に『The Otaku Encyclopedia』(単著、2009年)、『Otaku Spaces』(共著、2012年)、『Idols and Celebrity in Japanese Media Culture』(共編著2012年)、『The Moe Manifesto』(単著、2014年)、『Debating Otaku in Contemporary Japan』(共著、2015年)がある。
報告:田中 洋美(情报コミュニケーション学部准教授)
2000年代以降、世界各地の大学の日本学科で日本のサブカルチャーに関心を持つ学生が多数入学する现象が见られる。他学部所属でありながら日本文化への兴味から日本?日本语関连の科目を履修する学生も少なくないという。その背景には、マンガやアニメといった日本の大众文化が国境を越えて消费されるようになったとことがある。今年度最初の本センター定例研究会の讲师であるガルブレイス氏もまた、こうしたトランスナショナルな文化交通が进む中、日本の大众文化への関心から日本研究に携わるようになった研究者のひとりである。
この度の定例研究会では、ガルブレイス氏をお招きし、氏の「おたく」に関する言説研究を中心にご讲演いただいた。ご讲演では、「おたく」という言叶の系谱をたどり、1970年代以降「おたく」として何がどのように语られたのか、また「おたく」男性によるマンガの中の「美少女」崇拝がいかなるものであったかを论じてくださった。特に次の二点が、すなわち「おたく」とはもっぱら(特定の)男性を指す言叶として使われていったこと、かつ「おたく」とされた男性たちの「美少女」崇拝に男性性の问题が関係していたことがジェンダー研究者にとっては兴味深い论点であった。
讲演ではまず、伊藤公雄氏の语りや永山薫氏の论考を参照しながら、1960年代から1970年代にかけて男性中心主义的な学生运动に驯染めなかった男性たちの中に少女マンガを爱読する人々が出てきたこと、それが少女マンガ様式によって描かれる男性向けの「エロマンガ」の登场につながっていったことが指摘された。そのようなメディアを消费したのは、グラビアではなく二次元の「美少女」を好む男性マンガファンであり、彼らが「おたく」と呼ばれるようになったとのことであったが、そのような「おたく」言説は、「おたく」男性たちに対する偏见や差别的まなざしを多分に含むものであったという。このことが、主要ロリコンマンガ雑誌として人気を博した『漫画ブリッコ』(1982年刊行)に掲载された「『おたく』の研究」の考察を通して明らかにされた。
「『おたく』の研究」において、着者の中森明夫は、少女マンガといった女性领域に位置付けられるものを好み、二次元の女性に性的魅力を感じる「おたく」男性を「気持ち悪い」、「男性失格」と称した。実物の女性や成熟した女性のヌード写真に性的魅力を感じない「おたく」男性を「ビョーキ」とみなす中森の主张には、「おたく」男性を病理化する思考を见出すこともできるだろう。
1990年代になると、新しい「おたく」観が形成される。ガルブレイス氏によれば、1980年代终わりに起きた东京?埼玉连続幼女诱拐杀人事件の犯人が『漫画ブリッコ』の爱読者であり、ペドフィリアであったことから、「おたく」とは、その犯人のように、マンガやアニメが好きで、性的に倒错しており(ペドフィリア、二次元と叁次元の女性の区别ができない等)、かつ犯罪者にもなりうる危険な男性であるというイメージが形成されていったという。また1990年代には「萌え」言説が登场し、二次元美少女に対する性的欲望を持つことが强调されていく。言い换えれば、「萌え」という言叶の台头により、改めて「おたく」男性のセクシュアリティが论じられるようになったといえる。
しかし生身の女性と恋爱し、结ばれることをよしとする性规范に大きな変化は起きなかった。2000年代にヒットした『电车男』(「おたく」男性を主人公とする小説として刊行ののち、漫画や映画、ドラマとしてもヒット)では、主人公が偶然电车の中で助けた女性と亲密になることがハッピーエンドとして描かれていた。また二次元キャラと(拟似的に)「结婚」する「おたく」男性が现れたが、そのパフォーマンスを真に受け止めた英米の主要メディアは、そのような日本人男性を见下すような论调で少子化社会日本の论じたという。皮肉なことに、1980年代の异性爱中心主义的かつ恋爱至上主义的な中森の言説が、グローバリゼーションが进んだ现在、形を変えて国际的に再生产されているとも解釈できよう。
以上のような内容の讲演を受けて、コメンテーターの渡辺恒夫氏より、次の二点についてコメントをいただいた。
第一に、自らが1960年代に既に少女マンガに倾倒していた初期の「おたく」であるとした上で、ガルブレイス氏が今回考察対象とした1970年前后の时期よりも早く、少女マンガを爱読する男性が存在していたこと、また、ひきこもり同様、「おたく」男性も高齢化していることである。ガルブレイス氏が讲演の冒头で述べたように、「おたく」の定义は曖昧である。今回の讲演では、「おたく」に関する言説分析が中心であったが、男性による少女マンガ爱読の歴史については、改めて精査する必要があるかもしれない。
第二に、1980年代の中森の论考や现在の海外メディアの报道において「おたく」男性が「男性失格」のレッテルを贴られていることについて、ジェンダー化されている现代社会において标準的ないし规范的な男らしさに驯染めない男性がいるのは当然であり、「おたく」を真の男ではないと捉えることは、男性にないものねだりをしているのではないかということである。近年のジェンダー研究でもっとも重要な研究テーマのひとつが、男性性(マスキュリニティ)の问题であり、男性たちが社会において覇権的な男性性とどう折り合いをつけているのかについて研究がなされつつある。「おたく」と称される男性も既存のジェンダー规范やジェンダー秩序によって生じる社会的制约の影响下にあるはずである。その葛藤の様子についての详细な考察は、今后の研究に期待したい。
最后に、当日は学生から研究者に至るまで多数のご来场があった。それだけ「おたく」、そしてそれをジェンダー视点から论じることに関心が寄せられていたといえよう。聴众の関心に十分応える内容の発表をしていただいたガルブレイス氏にこの场を借りて改めて感谢の意を表したい。&苍产蝉辫;
この度の定例研究会では、ガルブレイス氏をお招きし、氏の「おたく」に関する言説研究を中心にご讲演いただいた。ご讲演では、「おたく」という言叶の系谱をたどり、1970年代以降「おたく」として何がどのように语られたのか、また「おたく」男性によるマンガの中の「美少女」崇拝がいかなるものであったかを论じてくださった。特に次の二点が、すなわち「おたく」とはもっぱら(特定の)男性を指す言叶として使われていったこと、かつ「おたく」とされた男性たちの「美少女」崇拝に男性性の问题が関係していたことがジェンダー研究者にとっては兴味深い论点であった。
讲演ではまず、伊藤公雄氏の语りや永山薫氏の论考を参照しながら、1960年代から1970年代にかけて男性中心主义的な学生运动に驯染めなかった男性たちの中に少女マンガを爱読する人々が出てきたこと、それが少女マンガ様式によって描かれる男性向けの「エロマンガ」の登场につながっていったことが指摘された。そのようなメディアを消费したのは、グラビアではなく二次元の「美少女」を好む男性マンガファンであり、彼らが「おたく」と呼ばれるようになったとのことであったが、そのような「おたく」言説は、「おたく」男性たちに対する偏见や差别的まなざしを多分に含むものであったという。このことが、主要ロリコンマンガ雑誌として人気を博した『漫画ブリッコ』(1982年刊行)に掲载された「『おたく』の研究」の考察を通して明らかにされた。
「『おたく』の研究」において、着者の中森明夫は、少女マンガといった女性领域に位置付けられるものを好み、二次元の女性に性的魅力を感じる「おたく」男性を「気持ち悪い」、「男性失格」と称した。実物の女性や成熟した女性のヌード写真に性的魅力を感じない「おたく」男性を「ビョーキ」とみなす中森の主张には、「おたく」男性を病理化する思考を见出すこともできるだろう。
1990年代になると、新しい「おたく」観が形成される。ガルブレイス氏によれば、1980年代终わりに起きた东京?埼玉连続幼女诱拐杀人事件の犯人が『漫画ブリッコ』の爱読者であり、ペドフィリアであったことから、「おたく」とは、その犯人のように、マンガやアニメが好きで、性的に倒错しており(ペドフィリア、二次元と叁次元の女性の区别ができない等)、かつ犯罪者にもなりうる危険な男性であるというイメージが形成されていったという。また1990年代には「萌え」言説が登场し、二次元美少女に対する性的欲望を持つことが强调されていく。言い换えれば、「萌え」という言叶の台头により、改めて「おたく」男性のセクシュアリティが论じられるようになったといえる。
しかし生身の女性と恋爱し、结ばれることをよしとする性规范に大きな変化は起きなかった。2000年代にヒットした『电车男』(「おたく」男性を主人公とする小説として刊行ののち、漫画や映画、ドラマとしてもヒット)では、主人公が偶然电车の中で助けた女性と亲密になることがハッピーエンドとして描かれていた。また二次元キャラと(拟似的に)「结婚」する「おたく」男性が现れたが、そのパフォーマンスを真に受け止めた英米の主要メディアは、そのような日本人男性を见下すような论调で少子化社会日本の论じたという。皮肉なことに、1980年代の异性爱中心主义的かつ恋爱至上主义的な中森の言説が、グローバリゼーションが进んだ现在、形を変えて国际的に再生产されているとも解釈できよう。
以上のような内容の讲演を受けて、コメンテーターの渡辺恒夫氏より、次の二点についてコメントをいただいた。
第一に、自らが1960年代に既に少女マンガに倾倒していた初期の「おたく」であるとした上で、ガルブレイス氏が今回考察対象とした1970年前后の时期よりも早く、少女マンガを爱読する男性が存在していたこと、また、ひきこもり同様、「おたく」男性も高齢化していることである。ガルブレイス氏が讲演の冒头で述べたように、「おたく」の定义は曖昧である。今回の讲演では、「おたく」に関する言説分析が中心であったが、男性による少女マンガ爱読の歴史については、改めて精査する必要があるかもしれない。
第二に、1980年代の中森の论考や现在の海外メディアの报道において「おたく」男性が「男性失格」のレッテルを贴られていることについて、ジェンダー化されている现代社会において标準的ないし规范的な男らしさに驯染めない男性がいるのは当然であり、「おたく」を真の男ではないと捉えることは、男性にないものねだりをしているのではないかということである。近年のジェンダー研究でもっとも重要な研究テーマのひとつが、男性性(マスキュリニティ)の问题であり、男性たちが社会において覇権的な男性性とどう折り合いをつけているのかについて研究がなされつつある。「おたく」と称される男性も既存のジェンダー规范やジェンダー秩序によって生じる社会的制约の影响下にあるはずである。その葛藤の様子についての详细な考察は、今后の研究に期待したい。
最后に、当日は学生から研究者に至るまで多数のご来场があった。それだけ「おたく」、そしてそれをジェンダー视点から论じることに関心が寄せられていたといえよう。聴众の関心に十分応える内容の発表をしていただいたガルブレイス氏にこの场を借りて改めて感谢の意を表したい。&苍产蝉辫;
2015年度 第1回『日本における子どもと子ども像の歴史 —江戸时代を中心として—』
2015年4月22日(水)実施
讲师略歴:ミヒャエル?キンスキー氏
報告:宮本 真也(情报コミュニケーション学部准教授)
本定例研究会は、2015年4月22日(水)18時より、明治大学駿河台キャンパス?グローバルフロント1F、グローバルホールで開催された。なお、講演者のミヒャエル?キンスキー教授は、明治大学国際交流基金事業の枠組において招聘された。また、コメンテーターとしては、東京大学大学院人文社会系研究科の出口剛司准教授を招いた。また、コーディネーターと当日の司会は情报コミュニケーション学部准教授の宮本真也がつとめた。
キンスキー教授はドイツのゲーテ大学フランクフルト?アム?マインの日本学において日本文化史?日本思想史を担当している。教授の现在の研究テーマは、以下の二つに分けられる。
1. 海保青陵の思想をその時代の文脈のなかで考え直す : 『 稽古談 』の英語訳を完成させ(巻1–4完、巻5未完)、包括的な概略と分析を準備する。文献批判に基づく『新?海保青陵全集』と注釈を目的とする研究グループを組織し、国際会議を準備する。
2. 日本の子供史 : 近世期の日記類?指南書などを踏まえて、江戸時代の子供像に迫ろうとする。P?アリエスとP?スターンズの方法論を考え直しながら、子供史を独立とした研究分野として成立するため相応しいアプローチを考察する。
これらのテーマのなかでも、本研究会では二番目のテーマ、すなわち「日本における子どもと子ども像の歴史」について讲演していただいた。
フィリップ?アリエスが指摘するように西洋の歴史においても「子ども」という表象、概念が近代の产物であるのと同様に、日本の歴史においても统一的な像が存在しなかったこと、まだまだ可能性のある研究领域であることをキンスキー教授はまず确认した。そのうえで教授は、江戸时代の子どもと子ども像の歴史について报告することの意味について考察を加えた。江戸时代のメディアを见れば、子どもが数多く描かれていることがわかる。浮世絵でも、娯楽のための読み物でも名书図絵でも、ジャンルを问わず子どもの姿を発见することは确かに可能である。しかし、他方で子どもの歴史、あるいは大人が持っていた子ども像を研究するのには男性が残した文献をしか拠り所にできないという事情がある。つまり、子どもが书かれている文献を残した男性が、どういう目で子どもを见て感想を述べたのか、など、男性をジェンダー论の立场から取り上げた研究はまだ発展段阶にある。子どものことを描写したり论じたりする男性をジェンダー论的に分析する研究はキンスキー教授によれば、まだ存在していない。それに加えて、江戸时代の子どもと子ども像については、当时の女性と女性像についてと同じように、当事者の视点(子どもの视点)からの资料があまりにも残されていないという难点がある。
それゆえ、江戸时代の子ども像については、社会学的あるいは文化史的な研究の领域で议论されている成人の男性の见解に基づく构成であるだけで、そしてこの构成は子どもたち自体が経験する生活または成长の现実と无関係なものではないかという疑问を常に维持し続けることが、重要となる。
こうした困难を念头に置いた上で、キンスキー教授は江戸时代の文献から子どものさまざまな描かれ方を绍介するのであるが、それは矛盾に満ちていると言ってもよい。すなわち、亲と死别した子どもを他の大人が引き取って育てる寛大さ、寛容さの物语もあれば、特定の日付で生まれた子どもの臓器が健康や长寿に効果を持ち、その信仰ゆえに子どもがさらわれ、残忍な杀され方をする物语もある。また、生类怜れみの令で有名な将军徳川纲吉は捨て子を引き受けたものに援助金を払う制度を作ったが、それを受けて、援助金を目当てに捨て子を引き受け、最终的にはその子どもたちを杀してしまう大人の集団も现れた记録も残されている。当时の状况には当然ながら、口减らしのための间引きや、人身売买があったことも忘れてはならない。このように、日本の歴史においては、ルイス?フロイスもまた惊嘆するほどの子どもをめぐっての寛大、寛容、慈しみといった肯定的な态度もあれば、身の毛もよだつほどの残忍、残酷な态度も认めることができるのである。
こうした江戸时代の子ども像をめぐる矛盾を説明するときに日本において重要な役割を果たしてきた研究者として、キンスキー教授は民俗学者?柳田国男の名前を挙げる。端的に言うならば、日本の子ども史研究の领域では、日本では「七歳までは神のうち」という思想が根强く、この思想によって子どもに対する亲切さも残虐も捨て子や间引きなども説明されてきたのだという。どうせ小さい子どもがまだ完全にこの世界に属していなければ、あの世にかえしてもよいという信仰が起こりうるという説明が、非常に広く、强く日本の研究者のあいだでは共有され、柴田纯の研究によると、この説明はそもそも柳田国男以前には见出だせないという。
しかし、柴田の指摘にならうならば、柳田自身が「七歳までは神のうち」について正确な典拠を示すことができておらず、どの时代からの考え方なのか、どうして「七歳」なのか、などの説明は一切なされておらず、柳田の影响力ゆえに民俗学を越えて、歴史学にまで、不正确な思想が浸透してしまっている。このことには、黒田日出男、宫本常一、大藤ゆきといった研究者たちも加担していて、基本的には柳田の仮説を、江戸时代あるいはそれ以前の时代の人々が子どもを神圣なる存在、神に近い存在とする文献を挙げることなくくり返している。
キンスキー教授は最终的に、「七つまでは神の子」という言い回しに代表される神圣なる存在である子ども像が、子ども史研究の束缚となり、文献を読む时に先入観として働いていることを指摘した。この思い込みや先入観から自由になることが、まず子どもを対象にする子ども史?子ども像の研究が、まともな研究分野として认められる最初の条件であるとした。そのうえで忘れてはならない侧面として、キンスキー教授は、人间が成长していって、子ども时代が终ったとしても、子どもであること自体が终わらないことを强调した。つまり、両亲が存命である限り、あるいは死んでも人间が、「亲」である人の観点からみればいつまでも「子ども」なのである。です。「子ども时代」の流动性?相対性がそこにも由来しており、それを歴史学的に把握することが一つの课题なのである。固定概念のジェンダー、社会层、民族などに、従来の政治史、社会史、文化史と相容れない子どもという流动性のある概念を取り入ることによって、歴史学全体が新たな段阶に辿り着くチャンスを持っていることを、キンスキー教授は最后に指摘した。
讲演后、コメンテイターの出口刚司准教授を初めとして、いくつもの质问やコメントがよせられ、活発な议论が行われた。フロアからも、研究者だけなく、学生からの质问も寄せられ、盛况であった。&苍产蝉辫;
キンスキー教授はドイツのゲーテ大学フランクフルト?アム?マインの日本学において日本文化史?日本思想史を担当している。教授の现在の研究テーマは、以下の二つに分けられる。
1. 海保青陵の思想をその時代の文脈のなかで考え直す : 『 稽古談 』の英語訳を完成させ(巻1–4完、巻5未完)、包括的な概略と分析を準備する。文献批判に基づく『新?海保青陵全集』と注釈を目的とする研究グループを組織し、国際会議を準備する。
2. 日本の子供史 : 近世期の日記類?指南書などを踏まえて、江戸時代の子供像に迫ろうとする。P?アリエスとP?スターンズの方法論を考え直しながら、子供史を独立とした研究分野として成立するため相応しいアプローチを考察する。
これらのテーマのなかでも、本研究会では二番目のテーマ、すなわち「日本における子どもと子ども像の歴史」について讲演していただいた。
フィリップ?アリエスが指摘するように西洋の歴史においても「子ども」という表象、概念が近代の产物であるのと同様に、日本の歴史においても统一的な像が存在しなかったこと、まだまだ可能性のある研究领域であることをキンスキー教授はまず确认した。そのうえで教授は、江戸时代の子どもと子ども像の歴史について报告することの意味について考察を加えた。江戸时代のメディアを见れば、子どもが数多く描かれていることがわかる。浮世絵でも、娯楽のための読み物でも名书図絵でも、ジャンルを问わず子どもの姿を発见することは确かに可能である。しかし、他方で子どもの歴史、あるいは大人が持っていた子ども像を研究するのには男性が残した文献をしか拠り所にできないという事情がある。つまり、子どもが书かれている文献を残した男性が、どういう目で子どもを见て感想を述べたのか、など、男性をジェンダー论の立场から取り上げた研究はまだ発展段阶にある。子どものことを描写したり论じたりする男性をジェンダー论的に分析する研究はキンスキー教授によれば、まだ存在していない。それに加えて、江戸时代の子どもと子ども像については、当时の女性と女性像についてと同じように、当事者の视点(子どもの视点)からの资料があまりにも残されていないという难点がある。
それゆえ、江戸时代の子ども像については、社会学的あるいは文化史的な研究の领域で议论されている成人の男性の见解に基づく构成であるだけで、そしてこの构成は子どもたち自体が経験する生活または成长の现実と无関係なものではないかという疑问を常に维持し続けることが、重要となる。
こうした困难を念头に置いた上で、キンスキー教授は江戸时代の文献から子どものさまざまな描かれ方を绍介するのであるが、それは矛盾に満ちていると言ってもよい。すなわち、亲と死别した子どもを他の大人が引き取って育てる寛大さ、寛容さの物语もあれば、特定の日付で生まれた子どもの臓器が健康や长寿に効果を持ち、その信仰ゆえに子どもがさらわれ、残忍な杀され方をする物语もある。また、生类怜れみの令で有名な将军徳川纲吉は捨て子を引き受けたものに援助金を払う制度を作ったが、それを受けて、援助金を目当てに捨て子を引き受け、最终的にはその子どもたちを杀してしまう大人の集団も现れた记録も残されている。当时の状况には当然ながら、口减らしのための间引きや、人身売买があったことも忘れてはならない。このように、日本の歴史においては、ルイス?フロイスもまた惊嘆するほどの子どもをめぐっての寛大、寛容、慈しみといった肯定的な态度もあれば、身の毛もよだつほどの残忍、残酷な态度も认めることができるのである。
こうした江戸时代の子ども像をめぐる矛盾を説明するときに日本において重要な役割を果たしてきた研究者として、キンスキー教授は民俗学者?柳田国男の名前を挙げる。端的に言うならば、日本の子ども史研究の领域では、日本では「七歳までは神のうち」という思想が根强く、この思想によって子どもに対する亲切さも残虐も捨て子や间引きなども説明されてきたのだという。どうせ小さい子どもがまだ完全にこの世界に属していなければ、あの世にかえしてもよいという信仰が起こりうるという説明が、非常に広く、强く日本の研究者のあいだでは共有され、柴田纯の研究によると、この説明はそもそも柳田国男以前には见出だせないという。
しかし、柴田の指摘にならうならば、柳田自身が「七歳までは神のうち」について正确な典拠を示すことができておらず、どの时代からの考え方なのか、どうして「七歳」なのか、などの説明は一切なされておらず、柳田の影响力ゆえに民俗学を越えて、歴史学にまで、不正确な思想が浸透してしまっている。このことには、黒田日出男、宫本常一、大藤ゆきといった研究者たちも加担していて、基本的には柳田の仮説を、江戸时代あるいはそれ以前の时代の人々が子どもを神圣なる存在、神に近い存在とする文献を挙げることなくくり返している。
キンスキー教授は最终的に、「七つまでは神の子」という言い回しに代表される神圣なる存在である子ども像が、子ども史研究の束缚となり、文献を読む时に先入観として働いていることを指摘した。この思い込みや先入観から自由になることが、まず子どもを対象にする子ども史?子ども像の研究が、まともな研究分野として认められる最初の条件であるとした。そのうえで忘れてはならない侧面として、キンスキー教授は、人间が成长していって、子ども时代が终ったとしても、子どもであること自体が终わらないことを强调した。つまり、両亲が存命である限り、あるいは死んでも人间が、「亲」である人の観点からみればいつまでも「子ども」なのである。です。「子ども时代」の流动性?相対性がそこにも由来しており、それを歴史学的に把握することが一つの课题なのである。固定概念のジェンダー、社会层、民族などに、従来の政治史、社会史、文化史と相容れない子どもという流动性のある概念を取り入ることによって、歴史学全体が新たな段阶に辿り着くチャンスを持っていることを、キンスキー教授は最后に指摘した。
讲演后、コメンテイターの出口刚司准教授を初めとして、いくつもの质问やコメントがよせられ、活発な议论が行われた。フロアからも、研究者だけなく、学生からの质问も寄せられ、盛况であった。&苍产蝉辫;