2016年度実施分特别讲义?上映会の成果につきましては、「ジェンダーセンター年次报告书2016年度」(2017年3月31日発行)からもご覧になれます。(笔顿贵データにリンク)
映画「ハンズ?オブ?ラヴ 手のひらの勇気」上映会&トーク
【映画概説】アメリカ?ニュージャージー州オーシャン郡。20年以上、警察官という仕事に打ち込んできた正义感の强い女性?ローレルは、ある日ステイシーという若い女性と出会い、恋に落ちる。年齢も取り巻く环境も异なる二人は、手探りで関係を筑き、郊外に一轩家を买い、一绪に暮らし始める。家を修缮し、犬を饲い、穏やかで幸せな日々が続くはずだった…。
しかし、ローレルは病に冒されてしまう。自分がいなくなった后もステイシーが家を売らずに暮らしていけるよう、遗族年金を遗そうとするローレル。しかし法的に同性同士にそれは认められていなかった。残された时间の中で、爱する人を守るために闘う决心をした彼女の勇気が、同僚やコミュニティ、やがて全米をも动かしていくことになる…。
しかし、ローレルは病に冒されてしまう。自分がいなくなった后もステイシーが家を売らずに暮らしていけるよう、遗族年金を遗そうとするローレル。しかし法的に同性同士にそれは认められていなかった。残された时间の中で、爱する人を守るために闘う决心をした彼女の勇気が、同僚やコミュニティ、やがて全米をも动かしていくことになる…。
報 告:田中 洋美(明治大学情报コミュニケーション学部准教授)
2016年11月15日(火)、本センターではアメリカ映画「ハンズ?オブ?ラヴ 手のひらの勇気(原題:Freeheld)」(2015年全米公開、http://handsoflove.jp/)の試写会とダイバーシティに関わる活動で実績のある方々をゲストにトークセッションを行った。この日は、国際寛容デー(International Day for Tolerance)の前日であった。これは1995年11月16日に採択された国連寛容宣言を踏まえ、国連が定めたものである。背景には、「人々は本質的に多様である。つまり寛容のみが世界各地の混成コミュニティを存続させることができるのだ。(People are naturally diverse; only tolerance can ensure the survival of mixed communities in every region of the globe) 」(注)という考えがある。本センターは、寛容という言葉こそ使わなかったものの、この考えに共鳴し、同時期に本イベントを行うことにした。
映画「ハンズ?オブ?ラヴ」では、二人の女性のパートナーシップを軸に、警察という硬い体質の組織での女性やマイノリティの働きにくさ、社会における同性カップルの暮らしにくさなど、社会におけるさまざまな偏見やそれに基づく差別、そしてそれらと折合いをつけながら生きる人々の姿が実話を基に描れる。本映画が、性別、セクシュアリティ、人種、宗教、年齢?世代等に基づく差別撤廃、ダイバーシティ(多様性)推進の動きが企業や行政に起こりつつある現代社会について、またそのような社会で生きることについて考える上で優れた教材となりうるとの確信から、主として学生を対象に映画上映とインタラクティブなトークセッションから成るイベントを企画した。また当日の司会は、筆者とともに昨年本センターが行ったMEIJI ALLY WEEKの学生実行委員長を務めた松岡宗祠さん(政治経済学部4年)が務めた。
当日は映画の上映から始まった。103分の上映后、会场は静けさに包まれていた。心を揺さぶるストーリーに涙を流した人々も少なくなかったようである。しばしの休憩を挟み、トークセッションが始まると会场は异なる雰囲気に包まれた。
トークセッションには、上川あや氏(世田谷区议会议员)、川田篤氏(日本アイ?ビー?エム株式会社)、斋藤明子氏(株式会社ポーラ人事部ダイバーシティ推进课长)、大森千秋氏(松竹株式会社洋画调整室)の4名を登坛者としてお招きした。トランスジェンダーの议员として知られる上川氏は、実体験を基に映画が描いた主人公ローレルの境遇について理解を示した。
まず本映画の日本での上映は、国内配给を担当する松竹株式会社がこの映画の公开を决めたからに他ならない。トークセッションでは、本作品を见つけ、买い付け、公开に向けて动かれた同社の洋画买い付けチームのメンバーの大森氏に、买い付けの様子や公开に至るまでの过程についてお话いただいた。
大森氏らは年に3、4回ほど海外のいろいろな都市で行われる洋画の见本市に参加し、新作の情报を収集し、また日本での公开に向けての交渉などを行っているという。「ハンズ?オブ?ラヴ」については、2年ほど前にアメリカで行われた见本市で初めてその存在を知った。人が人を思うまっすぐな気持ちに纯粋に感动し、すぐに台本を取り寄せた。その后、年が明けて、ベルリン映画祭でこの映画の抜き出し映像を见る机会があったが、短い映像にもかかわらず非常に心を揺さぶられたことから、ぜひとも日本で公开したいと强く思ったそうだ。ただチームの中に同性同士の恋爱に违和感を感じる者もいたため、帰国后、社内で意识调査を行った。结果、否定的な见解がほとんどないことを确认し、公开を本気で考えるようになったという。公开に向けて本格的に动くようになったきっかけは、その后参加したトロント映画祭であった。ワールドプレミアとして一般聴众とともに映画を観赏し、多くの人が涙を流し、感动している様子を目の当たりにしたという。
このような日本上映に至るまでの背景を踏まえつつ、登坛者らにより映画のストーリーを踏まえての様々な见解が呈示された。上川议员は、実体験を基に次の2点を强调された。第一に、映画の舞台アメリカだけでなく日本においてもマイノリティが生きづらい社会であること、第二に、しかしながら社会は変わりうる、ということである。映画の中では、必ずしも望むような形ではなかったかもしれないが、主人公の望みは叶う。上川氏は、性别を変更する制度をつくるために议员になり、実际にそれを成し遂げた人物であるが、この体験からも、映画が描いた「成功」はアメリカだけの话ではないこと、日本でも制度がないからと諦めずに、方法を探り、戦略的に动くこと(例えば、政治家にならなくても役所にハガキを出し、问题を诉える、つまり宪法で保障されている请愿権を行使する等)で変化が起こりうることが指摘された。
一方、川田氏は、职场で50代になってからゲイであることをカミングアウトし、现在は性的マイノリティに関するさまざまなイベントやメディア报道に出る等、活跃されている。今回この映画を见て、性的マイノリティをめぐる法整备が遅れた日本において自らが同じ状况に置かれており、涙なくして観ることができなかったというお话が冒头にあった。また映画の中でさまざまな人々がさまざまな形でローレルを支援している様子が描かれていることを指摘し、最终的にはどういう関係性を作っていくかという人间性の问题であると述べた。
斎藤氏は、公司でダイバーシティ推进を担当する立场から、まず映画の中で描かれる性别ゆえの生きづらさについてコメントがあった。现在、日本でも多くの公司においてダイバーシティ推进が行われるようになっているが、その大きな柱となっているのは女性の働きやすさの実现である。このことと络めて、ローレルとそのパートナー、ステイシーは、职业は异なるが、共に男社会で働いており、女性であることを理由になんらかの「差别」を経験していること、またそのような构造とうまく折り合いをつけながら生きていることの指摘がなされた。その上で、现在、性别やセクシュアリティに関係なく谁もが働きやすい社会の実现を目指した动きが公司を含むさまざまな组织で起こりつつあり、社会は确実に変わりつつあるということが重ねて强调された。
このような登坛者からの话を受けて、司会の松冈氏より、アライ(补濒濒测、性的マイノリティの支援者として使われつつある言叶)という言叶の重要性に改めて気づいたとの言叶があった。
质疑応答の时间では学生たちからも手が挙がった。就职活动を控えた女性の学生は、女性が人口の半分を占めているにも関わらず、映画に登场する人々、特に主人公を助ける人々は、ローレルの主治医を除き、ほとんどが男性であるのを见て、社会で力を持つのは结局男性なのだろうかと感じてしまったと述べた。その上で、2016年现在はどうなのだろうかと思うか、また意思决定に関わる人々が男女半分ずつになるのはいつだと思うかという质问があった。この质问に対して、登坛者から次のようなコメントがあった。まず上川议员は、男性と女性の両方で働いた経験から社会においてジェンダーの格差があるとした上で、现在は议员として女性であっても勉强してスキルアップすることで変化をもたらすことができるという力强い言叶をいただいた。川田氏、斉藤氏からは、职场には女性であっても有能な社员がいること、ただし社员に男性が多い会社と女性が多い会社では组织文化が异なる倾向があるという话があった。组织文化によって组织内でどう动くかも変わってくる。斉藤氏は、文化が変わるには时间がかかることから、どういう组织に身を置くかをよく见て、选ぶことが大切であるという指摘があった。
セクシュアルマイノリティであるという别の学生からは、趣味の世界においても多様性が问题となっているとの発言があった。趣味のコミュニティにおいて自分のセクシュアリティを打ち明けられずに悩んだが、今では年配の方々にも受け入れていただいており、违いを受け入れる方向に変化が起きているのではないかという発言があった。このことについて川田氏からは、差别を认めない法律が必要ではないかとの指摘があった。というのも、多様性を良しとする考えを持つ人が増えつつある一方で、差别意识のある人もおり、「ノー」という権利を主张する人もいるからである。
最后に、登坛者からは、声を上げ、幸福を追求することの大切さが繰り返し强调された。性的マイノリティをめぐる状况は、同性婚や性别変更等が认められるようになるなど、制度整备は大きく进みつつある。しかし人々の意识の変化はまだ限界つきであるといえよう。こうした状况を打破するためには、より多くの人がアライ(补濒濒测、性的マイノリティの支援者を指す言叶として近年使われつつある)となることも重要だろう。そして、このアライという言叶は、司会の松冈氏が指摘したように、セクシュアリティだけでなく様々な差异にまつわる困难を抱える人々を支援する人々という意味でも使うことができるだろう。
以上、イベントの概要である。この企画が现在の社会について理解を深め、今后あるべき社会の姿を构想する契机となったのであれば幸いである。
最后に、今回のイベントは、松竹株式会社とのコラボ企画であった。映画の试写およびトークセッションの実施にあたり、松竹関係者の方々より多くのご支援を顶戴した。この场を借りて心より感谢したい。
注:1)国际寛容デーに関する国连サイト、2017年1月20日閲覧
メディア报道
The Japan Times. “Freeheld’ stirs talk of minority rights in Japan.” 1 December 2016, p. 11.
狈贬碍ラジオ第1、毎週金曜22:00-23:10「狈贬碍ジャーナル」11月18日(金)映画コーナーにてイベント绍介(企画者、学生のインタビューあり)
MovieWalker 「映画:LGBTが自分らしく生きるためには?50代でのカミングアウトがもたらした希望」2016年11月16日10時53分
骋贰狈齿驰「ダイバーシティを考える、尝骋叠罢映画「ハンズ?オブ?ラブ」のトークイベントが开催」2016年11月16日
映画「ハンズ?オブ?ラヴ」では、二人の女性のパートナーシップを軸に、警察という硬い体質の組織での女性やマイノリティの働きにくさ、社会における同性カップルの暮らしにくさなど、社会におけるさまざまな偏見やそれに基づく差別、そしてそれらと折合いをつけながら生きる人々の姿が実話を基に描れる。本映画が、性別、セクシュアリティ、人種、宗教、年齢?世代等に基づく差別撤廃、ダイバーシティ(多様性)推進の動きが企業や行政に起こりつつある現代社会について、またそのような社会で生きることについて考える上で優れた教材となりうるとの確信から、主として学生を対象に映画上映とインタラクティブなトークセッションから成るイベントを企画した。また当日の司会は、筆者とともに昨年本センターが行ったMEIJI ALLY WEEKの学生実行委員長を務めた松岡宗祠さん(政治経済学部4年)が務めた。
当日は映画の上映から始まった。103分の上映后、会场は静けさに包まれていた。心を揺さぶるストーリーに涙を流した人々も少なくなかったようである。しばしの休憩を挟み、トークセッションが始まると会场は异なる雰囲気に包まれた。
トークセッションには、上川あや氏(世田谷区议会议员)、川田篤氏(日本アイ?ビー?エム株式会社)、斋藤明子氏(株式会社ポーラ人事部ダイバーシティ推进课长)、大森千秋氏(松竹株式会社洋画调整室)の4名を登坛者としてお招きした。トランスジェンダーの议员として知られる上川氏は、実体験を基に映画が描いた主人公ローレルの境遇について理解を示した。
まず本映画の日本での上映は、国内配给を担当する松竹株式会社がこの映画の公开を决めたからに他ならない。トークセッションでは、本作品を见つけ、买い付け、公开に向けて动かれた同社の洋画买い付けチームのメンバーの大森氏に、买い付けの様子や公开に至るまでの过程についてお话いただいた。
大森氏らは年に3、4回ほど海外のいろいろな都市で行われる洋画の见本市に参加し、新作の情报を収集し、また日本での公开に向けての交渉などを行っているという。「ハンズ?オブ?ラヴ」については、2年ほど前にアメリカで行われた见本市で初めてその存在を知った。人が人を思うまっすぐな気持ちに纯粋に感动し、すぐに台本を取り寄せた。その后、年が明けて、ベルリン映画祭でこの映画の抜き出し映像を见る机会があったが、短い映像にもかかわらず非常に心を揺さぶられたことから、ぜひとも日本で公开したいと强く思ったそうだ。ただチームの中に同性同士の恋爱に违和感を感じる者もいたため、帰国后、社内で意识调査を行った。结果、否定的な见解がほとんどないことを确认し、公开を本気で考えるようになったという。公开に向けて本格的に动くようになったきっかけは、その后参加したトロント映画祭であった。ワールドプレミアとして一般聴众とともに映画を観赏し、多くの人が涙を流し、感动している様子を目の当たりにしたという。
このような日本上映に至るまでの背景を踏まえつつ、登坛者らにより映画のストーリーを踏まえての様々な见解が呈示された。上川议员は、実体験を基に次の2点を强调された。第一に、映画の舞台アメリカだけでなく日本においてもマイノリティが生きづらい社会であること、第二に、しかしながら社会は変わりうる、ということである。映画の中では、必ずしも望むような形ではなかったかもしれないが、主人公の望みは叶う。上川氏は、性别を変更する制度をつくるために议员になり、実际にそれを成し遂げた人物であるが、この体験からも、映画が描いた「成功」はアメリカだけの话ではないこと、日本でも制度がないからと諦めずに、方法を探り、戦略的に动くこと(例えば、政治家にならなくても役所にハガキを出し、问题を诉える、つまり宪法で保障されている请愿権を行使する等)で変化が起こりうることが指摘された。
一方、川田氏は、职场で50代になってからゲイであることをカミングアウトし、现在は性的マイノリティに関するさまざまなイベントやメディア报道に出る等、活跃されている。今回この映画を见て、性的マイノリティをめぐる法整备が遅れた日本において自らが同じ状况に置かれており、涙なくして観ることができなかったというお话が冒头にあった。また映画の中でさまざまな人々がさまざまな形でローレルを支援している様子が描かれていることを指摘し、最终的にはどういう関係性を作っていくかという人间性の问题であると述べた。
斎藤氏は、公司でダイバーシティ推进を担当する立场から、まず映画の中で描かれる性别ゆえの生きづらさについてコメントがあった。现在、日本でも多くの公司においてダイバーシティ推进が行われるようになっているが、その大きな柱となっているのは女性の働きやすさの実现である。このことと络めて、ローレルとそのパートナー、ステイシーは、职业は异なるが、共に男社会で働いており、女性であることを理由になんらかの「差别」を経験していること、またそのような构造とうまく折り合いをつけながら生きていることの指摘がなされた。その上で、现在、性别やセクシュアリティに関係なく谁もが働きやすい社会の実现を目指した动きが公司を含むさまざまな组织で起こりつつあり、社会は确実に変わりつつあるということが重ねて强调された。
このような登坛者からの话を受けて、司会の松冈氏より、アライ(补濒濒测、性的マイノリティの支援者として使われつつある言叶)という言叶の重要性に改めて気づいたとの言叶があった。
质疑応答の时间では学生たちからも手が挙がった。就职活动を控えた女性の学生は、女性が人口の半分を占めているにも関わらず、映画に登场する人々、特に主人公を助ける人々は、ローレルの主治医を除き、ほとんどが男性であるのを见て、社会で力を持つのは结局男性なのだろうかと感じてしまったと述べた。その上で、2016年现在はどうなのだろうかと思うか、また意思决定に関わる人々が男女半分ずつになるのはいつだと思うかという质问があった。この质问に対して、登坛者から次のようなコメントがあった。まず上川议员は、男性と女性の両方で働いた経験から社会においてジェンダーの格差があるとした上で、现在は议员として女性であっても勉强してスキルアップすることで変化をもたらすことができるという力强い言叶をいただいた。川田氏、斉藤氏からは、职场には女性であっても有能な社员がいること、ただし社员に男性が多い会社と女性が多い会社では组织文化が异なる倾向があるという话があった。组织文化によって组织内でどう动くかも変わってくる。斉藤氏は、文化が変わるには时间がかかることから、どういう组织に身を置くかをよく见て、选ぶことが大切であるという指摘があった。
セクシュアルマイノリティであるという别の学生からは、趣味の世界においても多様性が问题となっているとの発言があった。趣味のコミュニティにおいて自分のセクシュアリティを打ち明けられずに悩んだが、今では年配の方々にも受け入れていただいており、违いを受け入れる方向に変化が起きているのではないかという発言があった。このことについて川田氏からは、差别を认めない法律が必要ではないかとの指摘があった。というのも、多様性を良しとする考えを持つ人が増えつつある一方で、差别意识のある人もおり、「ノー」という権利を主张する人もいるからである。
最后に、登坛者からは、声を上げ、幸福を追求することの大切さが繰り返し强调された。性的マイノリティをめぐる状况は、同性婚や性别変更等が认められるようになるなど、制度整备は大きく进みつつある。しかし人々の意识の変化はまだ限界つきであるといえよう。こうした状况を打破するためには、より多くの人がアライ(补濒濒测、性的マイノリティの支援者を指す言叶として近年使われつつある)となることも重要だろう。そして、このアライという言叶は、司会の松冈氏が指摘したように、セクシュアリティだけでなく様々な差异にまつわる困难を抱える人々を支援する人々という意味でも使うことができるだろう。
以上、イベントの概要である。この企画が现在の社会について理解を深め、今后あるべき社会の姿を构想する契机となったのであれば幸いである。
最后に、今回のイベントは、松竹株式会社とのコラボ企画であった。映画の试写およびトークセッションの実施にあたり、松竹関係者の方々より多くのご支援を顶戴した。この场を借りて心より感谢したい。
注:1)国际寛容デーに関する国连サイト、2017年1月20日閲覧
メディア报道
The Japan Times. “Freeheld’ stirs talk of minority rights in Japan.” 1 December 2016, p. 11.
狈贬碍ラジオ第1、毎週金曜22:00-23:10「狈贬碍ジャーナル」11月18日(金)映画コーナーにてイベント绍介(企画者、学生のインタビューあり)
MovieWalker 「映画:LGBTが自分らしく生きるためには?50代でのカミングアウトがもたらした希望」2016年11月16日10時53分
骋贰狈齿驰「ダイバーシティを考える、尝骋叠罢映画「ハンズ?オブ?ラブ」のトークイベントが开催」2016年11月16日
ドキュメンタリー映画「ちづる」上映会
報 告:細野 はるみ(明治大学情报コミュニケーション学部教授)
&苍产蝉辫; ジェンダーセンターでは、ジェンダー问题を通して多様性の理解と共生社会の実现に寄与することを设立以来の目的の一つとしており、それはジェンダーに限らず、少数者の理解という点で视野を広げることもできるのではないかという问题提起を含めた企画として、障害者とその周囲の人々を扱ったドキュメンタリー映画「ちづる」の上映会を実施した。
立教大学の学生として映像制作を学んでいた赤﨑正和监督は、大学の卒业制作として妹の千鹤を対象に选んだ。当初は、妹のことを友人たちにことばではうまく説明できず、映像ならできるのではと取り组み始めたが、撮影の过程で妹だけでなく自分や家族を见つめ直すことになる。自闭症は自闭症スペクトラムとも称され、発达障害の一种である。障害といっても身体活动に问题はなくことばも话せるため、周囲の人々にその困难さを分かってもらうのは逆に非常に难しい。自闭症には知的障害と重复する场合もそうでない场合もあるが、いずれにしろ周囲の状况の客観的な把握や适切な対応が难しく、本人なりの独特な文脉で理解する、「空気を読めない」人々である。日常の対人関係は周囲の人々も长年の経験の积み重ねの上で徐々に理解し受け入れていくしかなく、それが分からないとなかなか付き合うのは难しく、いきおい家族やごく近しい人しかつながりが持てなくなって「社会性」も育ちにくい。この映画では、障害者本人だけでなくそれを支える家族の问题も浮き彫りにする。支援の仕方、社会との関わりの持ち方、ケアする家族の负担など、障害者问题としてだけではなく、高齢者や病人のケアにも共通する问题を提起している。
上映後の講演では、赤﨑監督の講演と森達也情报コミュニケーション学部特任教授のコメントがあった。赤﨑監督は、映像を通して表現したいという思いの根底には、自分にとって当たり前の家族のことを友人に話すことができない思いがあり、それに向き合わねばならないと取り組んだ、など映画制作にまつわる紆余曲折を語った。森教授は、カメラが介入することで対象の人物が変化する、この映画では被写体を晒すということに加えて身内の障害者を扱うという意味で二重三重の屈折があるが、自分を主語とすることでそれを描けている、とのコメントがあった。会場には、主人公の千鶴と同様に、不登校を経験し父も病死して母と兄の3人家族という自閉症の女性(実はジェンダーセンター長の娘)がおり、学校で困難な状況の時、そのうち誰かが私と母を救ってくれるだろうと思っていたが、変わらないことは変わらないということが分かった、と当事者としての思いを語った。講演の後には会場からの質問や発言も多く、関心の高さがうかがわれた。
【「ちづる」のあらすじ】
千鹤は外见からはどこが障害なのか分からない、むしろ非常に魅力的な若い女性である。映画はアイドルスターからの年贺状を受け取って喜ぶ彼女の姿から始まる。実はこの年贺状は彼女の母が书いて投函したものだが、アイドルが见ず知らずの彼女に年贺状をくれるわけがないとは理解できない。続く20歳の诞生日の场面では、ケーキと花束を赠られて家族に「お诞生日おめでとう」と祝われ、自分自身に対しても「お诞生日おめでとう」という彼女。対话の人称が混同したりするという自闭症特有の受け答えで、家族もそれを分かって対応している。
次いで场面は、好きなものを买いに行きたい彼女が母亲のお金を胜手に持ち出し、それに気づいた母が制止するのに対して力づくで抵抗する姿を映す。お金は谁のものか、买いたいものがあれば无制限に买っていいのか、といった「していいこと」と「いけないこと」の区别を理解させることの难しさ、それは「悪意」ではなく「したい」ことを贯こうとする纯粋さに由来するのだが、その欲求が通らなければ身体を张って立ち向かう「家庭内暴力」、こうした困难なことのちりばめられた日常を兄はカメラを通して直视する。この母亲との喧哗は、彼女が大事にしている硬货のコレクションに気を纷らわせたことであっけなく终息する。百円玉を製造年ごとにきれいに箱の中に并べたものだが、ものを洁癖すぎるほどに秩序立てて扱うという自闭症の一面を表している。
こうした家庭内の「わからんちん」である彼女に効果があるかどうか半信半疑で母は子犬を饲うことにする。千鹤は子犬がやってきた当初は戸惑いながらも、やがて「しつけ」ということばを取り入れ、自分で「しつけ」をしようとする姿への変化に母は気づく。
一方、撮影者である兄は大学最终年での进路选択に悩み、妹に直面したことで障害者にかかわる仕事に兴味を持ち、试行错误しながらも自らの道を见いだしていく。同时に、障害者施设を见たことで千鹤の今后の生活に选択肢があることに気づく兄。このまま千鹤を家庭内に置いたままでいいのか、试みに母は地域のセンターに连れて行ってみるが、そう简単に千鹤はこちらの思うとおりには动かない。
一家の父亲は数年前に自动车事故で他界しており、千鹤を见つめた1年は家族にとってもその后の生活について様々な问い直しをもたらした。故郷の福冈で新生活をはじめようと転居を决めた母、卒业后の进路に踏み出す兄、そして成人した千鹤。
【来场者の感想】
アンケートには、参加者82名のうち55名からと多くの回答が寄せられた。おおむね好意的で、よい映画だった、有意义だった、映画だけでなく监督自身のことばが闻けてよかった、障害だけでなく子育てや多様性という面でも意味がある企画だった、等々の声が多数寄せられた。映画のラストシーンの千鹤の表情から、ことばではとらえきれない感动を受け、じっくり考えていきたい、という声もあった。今回の企画の特徴として、家族や知人に障害者がいる、自分自身が障害を持っている、等の声も多く、具体的な日常を描き出す映画から、身につまされる体験を持つがゆえの共感も多くあった。その意味で、自闭症当事者の発言がよかったという感想もいくつかあった。多様性に対する视野を広げての企画にも支持するという声が多数寄せられた。
立教大学の学生として映像制作を学んでいた赤﨑正和监督は、大学の卒业制作として妹の千鹤を対象に选んだ。当初は、妹のことを友人たちにことばではうまく説明できず、映像ならできるのではと取り组み始めたが、撮影の过程で妹だけでなく自分や家族を见つめ直すことになる。自闭症は自闭症スペクトラムとも称され、発达障害の一种である。障害といっても身体活动に问题はなくことばも话せるため、周囲の人々にその困难さを分かってもらうのは逆に非常に难しい。自闭症には知的障害と重复する场合もそうでない场合もあるが、いずれにしろ周囲の状况の客観的な把握や适切な対応が难しく、本人なりの独特な文脉で理解する、「空気を読めない」人々である。日常の対人関係は周囲の人々も长年の経験の积み重ねの上で徐々に理解し受け入れていくしかなく、それが分からないとなかなか付き合うのは难しく、いきおい家族やごく近しい人しかつながりが持てなくなって「社会性」も育ちにくい。この映画では、障害者本人だけでなくそれを支える家族の问题も浮き彫りにする。支援の仕方、社会との関わりの持ち方、ケアする家族の负担など、障害者问题としてだけではなく、高齢者や病人のケアにも共通する问题を提起している。
上映後の講演では、赤﨑監督の講演と森達也情报コミュニケーション学部特任教授のコメントがあった。赤﨑監督は、映像を通して表現したいという思いの根底には、自分にとって当たり前の家族のことを友人に話すことができない思いがあり、それに向き合わねばならないと取り組んだ、など映画制作にまつわる紆余曲折を語った。森教授は、カメラが介入することで対象の人物が変化する、この映画では被写体を晒すということに加えて身内の障害者を扱うという意味で二重三重の屈折があるが、自分を主語とすることでそれを描けている、とのコメントがあった。会場には、主人公の千鶴と同様に、不登校を経験し父も病死して母と兄の3人家族という自閉症の女性(実はジェンダーセンター長の娘)がおり、学校で困難な状況の時、そのうち誰かが私と母を救ってくれるだろうと思っていたが、変わらないことは変わらないということが分かった、と当事者としての思いを語った。講演の後には会場からの質問や発言も多く、関心の高さがうかがわれた。
【「ちづる」のあらすじ】
千鹤は外见からはどこが障害なのか分からない、むしろ非常に魅力的な若い女性である。映画はアイドルスターからの年贺状を受け取って喜ぶ彼女の姿から始まる。実はこの年贺状は彼女の母が书いて投函したものだが、アイドルが见ず知らずの彼女に年贺状をくれるわけがないとは理解できない。続く20歳の诞生日の场面では、ケーキと花束を赠られて家族に「お诞生日おめでとう」と祝われ、自分自身に対しても「お诞生日おめでとう」という彼女。対话の人称が混同したりするという自闭症特有の受け答えで、家族もそれを分かって対応している。
次いで场面は、好きなものを买いに行きたい彼女が母亲のお金を胜手に持ち出し、それに気づいた母が制止するのに対して力づくで抵抗する姿を映す。お金は谁のものか、买いたいものがあれば无制限に买っていいのか、といった「していいこと」と「いけないこと」の区别を理解させることの难しさ、それは「悪意」ではなく「したい」ことを贯こうとする纯粋さに由来するのだが、その欲求が通らなければ身体を张って立ち向かう「家庭内暴力」、こうした困难なことのちりばめられた日常を兄はカメラを通して直视する。この母亲との喧哗は、彼女が大事にしている硬货のコレクションに気を纷らわせたことであっけなく终息する。百円玉を製造年ごとにきれいに箱の中に并べたものだが、ものを洁癖すぎるほどに秩序立てて扱うという自闭症の一面を表している。
こうした家庭内の「わからんちん」である彼女に効果があるかどうか半信半疑で母は子犬を饲うことにする。千鹤は子犬がやってきた当初は戸惑いながらも、やがて「しつけ」ということばを取り入れ、自分で「しつけ」をしようとする姿への変化に母は気づく。
一方、撮影者である兄は大学最终年での进路选択に悩み、妹に直面したことで障害者にかかわる仕事に兴味を持ち、试行错误しながらも自らの道を见いだしていく。同时に、障害者施设を见たことで千鹤の今后の生活に选択肢があることに気づく兄。このまま千鹤を家庭内に置いたままでいいのか、试みに母は地域のセンターに连れて行ってみるが、そう简単に千鹤はこちらの思うとおりには动かない。
一家の父亲は数年前に自动车事故で他界しており、千鹤を见つめた1年は家族にとってもその后の生活について様々な问い直しをもたらした。故郷の福冈で新生活をはじめようと転居を决めた母、卒业后の进路に踏み出す兄、そして成人した千鹤。
【来场者の感想】
アンケートには、参加者82名のうち55名からと多くの回答が寄せられた。おおむね好意的で、よい映画だった、有意义だった、映画だけでなく监督自身のことばが闻けてよかった、障害だけでなく子育てや多様性という面でも意味がある企画だった、等々の声が多数寄せられた。映画のラストシーンの千鹤の表情から、ことばではとらえきれない感动を受け、じっくり考えていきたい、という声もあった。今回の企画の特徴として、家族や知人に障害者がいる、自分自身が障害を持っている、等の声も多く、具体的な日常を描き出す映画から、身につまされる体験を持つがゆえの共感も多くあった。その意味で、自闭症当事者の発言がよかったという感想もいくつかあった。多様性に対する视野を広げての企画にも支持するという声が多数寄せられた。