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定例研究会 2018年度

第1回 生殖の当事者とは谁か?

2019年1月16日(水)実施

讲师:斋藤圭介氏
冈山大学大学院社会文化科学研究科准教授。専门は社会学。生殖の问题をジェンダーの视点(とくに男性の立场)から研究している。现在は生殖补助医疗技术を用いた夫妇へのインタビュー调査を进めている。主な着书?论文に「〈生殖と男性〉の社会学——ジェンダー理论における平等论?再考」(博士论文)などがある。
报告:出口 刚司(东京大学大学院人文社会系研究科准教授)



発表者の斋藤氏とコーディネーターの出口氏

今回の定例研究会では、斋藤圭介氏を讲师としてお招きし、「男性が妊娠の当事者になるとき——男性不妊専门医と出生前诊断に関心がある男性の语りから」というテーマでご讲演いただいた。斋藤氏は、东京大学大学院を修了后、现在、冈山大学文学部で准教授をつとめる新进気鋭の社会学者である。氏の専门领域は、いわゆる男性学である。この领域は、1960年代以降登场した女性学のインパクトを受け、これまで自明视されてきた社会の中の「男性性」の在り方やその问题点を反省的にとらえ直すことを目的としている。女性学同様、脱领域的?学际的に発展してきた知の新领域ともいえるだろう。その中でも、斋藤氏は日本における第二世代を代表する研究者であり、今回のご讲演でも自らの博士论文と最近の経験的研究を踏まえた、最先端の成果をご披露いただけることになった。氏は本研究会において、これまで不在=不问のままであった「妊娠における当事者としての男性(性)」に光を当てるが、この「男性(性)の不在」こそ、男性学がもっともその重要性を発挥するテーマであり、同时にジェンダー研究全体にとっても见过ごすことのできない主题を形成しているといえるだろう。以下、当日の斋藤氏のご讲演内容を振り返りつつ、そのジェンダー研究に対して持つ意味について振り返っておきたい。
 斋藤氏の最初の注目点は、フェミニズムにおける规范理论(ケア论)と现代リベラリズム(正义の理论)の対立にある。フェミニズムが伝统的な人文科学、社会科学を男性中心の学问として批判の狼烟をあげて以来、正义の理论としての现代リベラリズムは、フェミニズムとどのように対峙するのか。これは男性学、ジェンダー研究のみならず、现代思想の根干を考える上でも重要な问题提起である。ここでフェミニズムが提起した问题とはすなわち、以下の疑念である。现代リベラリズムは、その解放の领域が私的领域とは切り离される形で成立した公的领域(政治?労働?职业)に限定される限り、个人の自由と男女の平等という首尾一贯した规范的主张を展开しうる。

 しかし、身体的差异が顕在化する私的领域(家庭?恋爱?生殖)においては、自らの主张の整合性を维持することが容易ではないというものである。氏によれば、こうした疑念、整合性のなさがもっとも顕着に表れるのが生殖という私的领域である。じっさいに现実的に「生殖は女性の问题である」「他人事」「よくわからない」「関心がいない」という声に隠れて、生殖における男性は不在でありつづけた。さらに生殖という领域に男性が积极的に関わろうとすると、一方で女性の自己决定を侵害したり、パターナリズムに陥る危険性があり、他方で妻を支えるという男性(夫)の姿势は、时として无関心、消极性という振る舞いの温床となる。その意味で、生殖をめぐる男性と女性の関わり方は、つねに论理的に対立する矛盾状况を引き起こし続けてきた。ここに现代リベラリズムの不可能性があり、斋藤氏の研究はこの「不可能性」に対する挑戦と位置付けることもできるだろう。その中で斋藤氏は、「男性は傍観者」であり「男性の生殖论は议论の空白状态」であったとする现実、そしてそれを上书きする先行研究を乗り越え、何よりもまず「当事者」としての男性の生殖経験を记述することの重要性を强调する。
 男性の生殖経験が社会的に顕在化する背景として、生殖补助医疗の発达及び晩婚化、晩产化することにより、そうした补助医疗に対する社会的関心が高まったことがあげられる。それ以前は、不妊は女性の问题として対処されてきたが、医疗技术の进歩によって不妊の原因の50%が男性にあることが明らかとなり、男性が不妊という问题を自らの问题として引き受けざるを得ない状况が生じた。しかし斋藤氏によると、こうした状况下で男性の不妊がスティグマとして扱われる诸侧面、つまり、身体が正常でないことへのショック、ライフコースへの影响、他者からのまなざしの変化、所属集団?グループにおける自身の位置づけの変化などがこれまで论じられてきたが、「生殖の当事者として男性は自身をいかに捉えているのか」という视点は欠落してきたという。
 まず、斋藤氏による専门医への调査からは、生殖についての男女の意识の格差が依然として存在するものの、不妊治疗に関して不妊に対する男性の意识に変化が见られる点が明らかにされる。それがもっとも顕着に表れるのが、初诊から男性が来院する点に见られる。さらに、妻が主导するとはいえ、男性の积极的な関与も见られるようになった。その背景にあるのは、自己との関係において、不妊を通して男性が当事者として责任の意识を强く意识づけられるようになったこと、そしてまた、妻との関係においては、妻の负担を分かち合い、軽减したいという意识が存在することが指摘される。不妊治疗は多くの场合、女性の身体に対し侵袭的で苦痛を伴うが、夫である男性も同様の负担が生じる検査を受けることで负担を分かち合い、という意识が强く働いていると考えられるのである。ただ兴味深い点は、生殖补助医疗の発展やそれを取り巻く社会状况の変化の中で、男性の当事者としての意识が形成されつつあるものの、そうした当事者意识は、妻が妊娠するとともに薄れていく事実である。斋藤氏はその原因を、男性意识の変化が父亲役割が制度化された「社会的役割」に强く规定されていることにあると见る。
 今回の斋藤氏の讲演により、近年、生殖医疗技术の进歩により、不妊を通して男性の生殖に対する関わり方に変化が生じつつあること、具体的には不妊の原因の可能性をもつ主体としての「身体の自己管理の意识」や生殖そのものにかかわる「主体としての意识」が见られるようになったことがあげられる。しかしその「意识」は热心に取り组む妻、身体的负担を背负う妻に対する责任の意识の表れであるという点では、他者依存的と言えなくもない。しかしこうした一见、消极的に见える意识の背后に斋藤氏は、単なる「无関心」には还元されない男性の侧の意识があるという。それは「関心はあれども何もできないという実感」である。そしてそうした「実感」は、分析、评価、告発、解放をめざす学的な言説から漏れ落ちるものであり、当事者としての男性の言説を丹念に记述することによって、はじめて浮かび上がってくる。身体をめぐるジェンダー研究では、妊娠?出产の当事者としての女性の自己决定権が特権的かつ规范的に重视されてきた経纬がある。そうした视点の重要性はいささかも减じられてはならないが、その背后で不在となってきた妊娠?出产の「当事者としての男性(性)」を浮かび上がらせることもまた、ジェンダー研究においては必要不可欠な作业である。斋藤氏の研究は、「不妊」というほんの一瞬であれ、男性の身体が妊娠の场に登场する瞬间において、当事者としての男性性を见事に描き出した。そしてまたこれこそ、私的领域における男女の関係性を解明するための重要な一歩でもあるのである。