映画『道草』上映会&トークイベント 开催报告
2022年10月19日
明治大学 情报コミュニケーション学部ジェンダーセンター
2022年5月25日(水)开催
映画『道草』上映会?トークイベント
【主催】明治大学情报コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日时】2022年5月25日(水) 17:30~20:00
【会场】明治大学骏河台キャンパス グローバルフロント グローバルホール
【来场者数】60人
【コーディネーター】細野はるみ(明治大学名誉教授?情报コミュニケーション学部元教授)
【プログラム】
◆第1部:?映画「道草」上映
(监督:宍戸大裕/95分)
◆第2部:讲演?トーク
【登坛者】
宍戸大裕氏 (本作品监督?映像作家)
细野はるみ
?宍戸监督の讲演
?质疑応答
报告:细野はるみ
ジェンダーセンターでは多様性の理解と共生社会の実现に寄与することを设立以来の目的の一つとしており、现在ではセンターの取り上げる课题として「ジェンダー」のほかに「ダイバーシティ」「承认」も加えて3つの项目をキーコンセプトとして掲げている。そうした中で、特に多様性への理解を深めるための问题提起をこめた企画として、2016年度には自闭症の女性とその周囲の人々を扱ったドキュメンタリー映画「ちづる」の上映会を、2018年度には知的障害者の社会参加を描いた舞台剧「幸福な职场」の映像化作品の上映会を実施してきた。今回はそれに次いで知的障害者の地域での自立生活を扱ったドキュメンタリー映画「道草」を通して、障害者、特に认识やコミュニケーションに困难があるために社会的に置き去りにされがちな知的障害者や自闭症、発达障害者をめぐる状况の理解への提言をめざした。一连の企画はこの3作で完结させる予定であったが、2020年春に予定していた上映会が新型コロナ感染症の蔓延のあおりを受けて中止となり、2年の时を経て本年何とか対面での开催にこぎつけることができた。
今回の企画以前のものについては『ジェンダーセンター年次报告书』2016年度版、及び2018年度版をご参照いただきたい。
学生たちにとって、大学という知的集団では特にこうした问题に兴味関心がないと知的障害者には目を向けにくいかもしれない。义务教育期间中には教室で见かけた障害者も、知的に选别された集団である高校や大学へと进むにつれいつの间にか周囲から见えなくなってしまう。また性的少数者や人种差别を受ける当事者たちと比べると知的や発达の障害者は声を上げにくく、社会的状况とともに障害そのものの特性により、当事者本人の声をすくい上げることは困难である。知的障害者をめぐる一连の问题提起を企画したのも、まずは広くこの问题に目を向けてほしいからであった。
映画「道草」は家族によるケアや障害者施设、病院などでの生活から离れて地域で支援を受けながら自立生活をする障害当事者4人の具体的な日常を描いたドキュメンタリー作品で、上映时间は约95分である。
监督は映像作家の宍戸大裕氏である。宍戸氏の作品では、东京の高尾山の开発による自然破壊とそれに反対する地元住民の问题や、人工呼吸器を使用しながら地域で生きていく障害者、知的障害者の入所施设での人生などを扱ってきた。いずれも困难な立场で生きる人々の姿から「共生」の诸相を扱う社会性の强い作品であるが、特に东日本大震灾で被灾した动物たちを追った作品では、人间と同じように动物も被灾していることに焦点を合わせている。「共生社会」といってもとかく人间中心で捉えがちな视点に対し、より広い视野を提示しているといえよう。
映画「道草」に登场する4人はすべて男性で、自闭症と知的障害を併せ持っている。障害の程度はそれぞれだが、発达障害の一种である自闭症者にはこだわりが强かったり人とのかかわりが难しかったりする人も多く、いわゆる「健常者」には当たり前の日常生活が极めて困难で、时にパニック、自伤、他害などに至るために家族だけで支えるのは限界がある场合も少なくない。従来こうした人たちは家族を离れて施设での集団生活に移行したり、それでも困难な场合は强制的に精神科病院に入院させられたりしてきた。しかしこの种の障害を持つ人々はそもそも多くの人が集まる场が苦手な者が多いため、施设のような集団的な支援には无理がある。
近年、「重度访问介护」という福祉制度を使って施设ではなく地域での住居を借りるなどして亲元を离れ、集団生活とは违った个别のスケジュールに従って自立した生活を始めるケースが徐々に现れてきた。この制度はもっぱら重度の身体障害者に使われてきていたが、2014年以降は知的や精神の障害が重度の当事者にも対象が拡大され、家族や施设に頼らずに介护者の助けを受けての一人暮らしの可能性が広がった。この制度を使えば「外出」とか「家事援助」などの目的が限定された支援ではなく、本人に必要とされる限り日常生活全般にわたって支援ができ、その内容は限定されないというメリットがある。自闭症者は特に周囲の状况に敏感に反応して落ち着きを失いパニックを起こしたりしやすいので、ともに时间を过ごす「见守り」も重要な支援の一つである。
映画の最初に登场する搁君の両亲は、幼少期に彼が自闭症?知的障害であるとわかってからは将来を见すえて早くから彼と支援者との関係を筑いていった。青年期に至って亲元を离れた彼は地域生活のパイオニアの一人といえよう。复数のヘルパーが交替で関わり昼间は作业所に通い、夜はヘルパーと共に过ごす。ヘルパーは本人のマイペースに付き合いながら时に困り果て、时に焦ってもしょうがないと开き直って対応するが、その様はどこかのどかでほほえましく、自然と当事者自身のみならず、ヘルパーの人となりも映し出されてくる。
2人目の贬君、3人目の驰君はともに施设での生活が长かった。そのため、贬君は急に大声を出したりするなど强迫的な行动をコントロールできず、制止してもすぐに繰り返す。また、食事の好みなどは主张せず、ヘルパーに対し过度に従顺すぎる彼に対し、逆にヘルパーの方が、自己を抑えて生活してきたであろう彼の施设生活に思いをいたす。
驰君は落ち着きを失うとところかまわず暴れてしまうため、集合住宅では难しく戸建て住宅で生活する。2阶で大声を上げ部屋の中で暴れてそこら中を壊す彼を抑えることができない父亲が阶下で腕组みをしてじっと彼の兴奋が収まるのを待っている。ヘルパーでもある父亲も含め、彼の支援に入っている介护者たちが集まってどのように支援したらいいか相谈するがなかなか容易ではなく、时に精神科病院への一时的な入院生活を余仪なくされたりもする。驰君本人は落ち着いている时は至って穏やかな表情なのだが、长い施设での生活の中では、おそらく虐待も含め、つらい思いをたくさん重ねてきたのだろう。そうした蓄积が暴力という形をとっての彼の表现になってしまっている。
4人目の碍君は相模原の障害者施设で起きた「津久井やまゆり园事件」の被害者の1人で、この映画の製作中に起きた事件のその后が映画に盛り込まれた。彼を长く施设に託してきた両亲は、事件によって「施设」というものと直面することになる。託した当初にはなかった「支援を受けての地域生活」というものを知り、息子の将来のために、事件后に再建される施设に戻すのではなく、新しい生活の可能性に赌けることを选ぶ。
映画全体を通して、ハンディを持つ人々の平穏な暮らしはどのように保証されるのかが问われている。まずは家族が支えるべきだという声は当然予想されるが、时にこうしたケースでのケアは文字通りの命がけであり、家族だけでは限界がある场合も少なくない。日本ではとかくケアを家族の中だけに追い込んでしまうために、近すぎるが故の过重负担などの困难も稀ではない。では施设かというと、それも十全ではない。个々に违ったあり方の障害当事者の集団での日常生活を成り立たせるためには、力による制圧や长期にわたる薬の常用などの手段によって个を抑えてコントロールすることも多々ある。そこに问题があっても、自闭症や知的障害の当事者は自分自身でそれを表明し诉えることが非常に困难で、彼ら自身の口からその思いはどうであるのかが语られることはまずない。
といって、彼らが何も思わないのではない。ただそれを表现する手段を持ち合わせないだけである。周囲から见て「问题行动」と思われる振る舞いも、彼らにとっては必死の表现であるのではないか。贬君の支援をするヘルパーが「この人たちの生きる意味」について真剣に考えこむ场面がある。こうした支援を担う人たちは当事者に近しく接触することによって、逆に彼らの生きる意味と同时に自分の生きる意味を考えることになるのかもしれない。「共に生きる」とは、こうした自己と他者のそれぞれの立场に思いを巡らす「想像力」や「共感性」に支えられてこそ、生きたものになるのではないだろうか。
障害者の生活を家族だけで背负うのには限界がある、といって、施设に託せばいいかというとそれも违う。「健常者」は教育や职业など様々な场面で「障害者」を分离することで社会の平穏を维持してきた。それは日常生活全般においても同様で、自宅での生活が困难であれば施设へと向かわせてきた。しかし自闭症?発达障害の当事者は大规模な施设での集団生活自体が困难である。そこで障害者の个别の事情に応じた支援「パーソナルアシスタンス」(注)が提唱され、また生活の全体をカバーする「重度访问介护」の制度が利用できるようになった。今后は障害者にとっても蚕翱尝(生活の质)を确保するというインクルーシブな社会に向かっていくことが望まれる。
ここ数年、障害者をめぐる状况には様々な出来事があった。中でも社会的に重大な関心を呼び起こしたのは2016年7月に起きた神奈川県の知的障害者施设「津久井やまゆり园」での杀人?伤害事件であっただろう。施设の元职员でありながら障害者は社会にはお荷物であるという犯人の主张は、优生思想を真っ向から突き付けて社会を震撼させた。
また2018年には官公庁での障害者雇用の数値の水増し问题が轩并み表面化したり、旧优生保护法を根拠とした障害者への强制不妊手术の人権侵害问题が当事者たちから提诉されたりもした。2020年には「やまゆり园事件」の裁判の判决が下り、被告は死刑の判决を控诉することなく确定させ、社会は事件に至る详细を犯人の声を通して熟虑する手掛かりを失った。(その后、2022年4月には植松死刑囚は再审を请求した。)
今年2022年9月、国连は「障害者権利条约」に対する日本の取り组みを审査して勧告を出した。この条约は障害に基づくあらゆる差别の禁止や教育の平等など、障害者の人権全般にわたって言及しており、2006年に国连で採択され2008年に発効し、日本は2014年に批准した。しかしその后も日本政府の具体的な取り组みはなかなか进まず、今回の审査ではかなり踏み込んで日本の対応の问题点を指摘している。日本の法规や制度の整备上特に遅れているのが、
障害者を精神科病院に强制的に入院させ自由を夺うことの解消
そこでの隔离?身体拘束?强制投薬などの强制的治疗のあり方
施设に収容することで终わりとすることからの脱施设化
分离された特别教育からインクルーシブ教育へ
といった问题であると指摘された。特に日本では人口に対する精神科病院の病床数が他国に比べて格段に多く、入院期间も长期にわたることが少なくない。精神科病院は急性期の精神疾患の患者を受け入れるという本来の机能以上に、障害者や高齢者など社会的に支援の困难な人々の受け皿になってしまっている。
「障害者権利条约」では、社会の侧が自分たちに都合のいい「障害者のため」の论理を押し付けるのではなく、障害者自身の主体性を确保することが人権尊重のためには最も大切だと言っている。こうしたことへの取り组みは政治の力で対処するべきであるのは言うまでもないが、同时に社会全体で、障害者を排除して见えない存在に置くことに安住せずに「共に生きる」社会を筑く意识を高めていくことは不可欠である。我々は、「健常者」の侧の内なる差别意识にもっと敏感になる必要があるのではないか。
せっかく歩み始めた障害者の自立した地域生活への移行だが、现実には広がっていくどころか近年减少倾向にあり、依然として施设利用などが担っている。背景には介护者の待遇など社会的评価もまだまだ十分とは言えず、そこからくる人材不足なども関わっていよう。さらに世界中で新型コロナ感染症が蔓延し、あらゆる场面での変换を余仪なくされた。こうした状况の影响を受けて真っ先に行き詰まるのが、この映画に登场するような障害のある人たちなども含め社会的に弱い立场の人たちである。障害当事者の地域での日常生活の支援を担う现场の介护ヘルパーの人たちは身体的に近い距离での支援が不可欠なため、コロナ状况下では様々な制约を受けざるを得なかった。
社会的な理解の深まりと差别への意识改革、政治の力を使った制度の确立はもちろん欠かせないが、それを実现するのは现场にいる支援の担い手たちである。いかに共生の理论が进展しようと、现実との乖离があれば机上の空论に过ぎない。日常生活を成立させるために最も大事で、またもっとも大変なのが「ケア」である。ここに登场する当事者たちは「自立生活」といっても完全に一人では困难で、しかし本人の意思を尊重するにもコミュニケーション自体に困难があり、食い违ったり时间がかかったりすることは频繁に起こる。ケアに当たる人は効率的、合理的な対応を强いることを一旦停止し、障害当事者の実际の姿を虚心坦懐に见ることで事态の打开を図ることになるが、それは家族であっても介护者であっても非常な忍耐と冷静さを要请されることでもある。そしてそれは実は障害者に限ったことではなく、すべての人が生き易い社会の构筑に必要なことなのではないだろうか。この映画ではそのような姿をも见せてくれたように思う。
【来场者の感想】
トークイベントでは宍戸监督の讲演の后、监督からの希望で映画终了后に会场から寄せられた声に多く答えるような形で进めた。最も多かった质问は、
この映画の製作に至る动机は何か、何をメッセージとして伝えようとしたのか、
自然な関係での撮影にあたって注意したことは何か、
の2点であった。
次いで、日常的に障害者の姿を近くで见る机会がない人々の理解を広げるためにはどうしたらいいか、障害者とどのようにかかわっていけばいいのか、共に生きることに现在最も大きな壁になっていることは何かなどの质问もあった。逆に、参加者の中に自身が発达障害当事者であり、周囲の配虑以上に理解が必要だという経験を语った声もあった。いずれについても时间の制限を気にしながら登坛者と会场との活発な意见交换が行われた。
また、支援を受ける侧も介护者も男性が多いが女性はいないのかという质问もいくつかあったが、これについては登坛者の1人が実际に身内に女性の当事者で同様のケースを持つことを绍介した。
介护者についてのコメントもあり、この映画では障害者だけでなく介护者にもフォーカスされていることを评価する声、また、地域生活を始めるのは本人?家族?支援者のうちだれが主导するのか、介护者の人员はどうやって确保するのか、费用负担はどうなっているのか、自立支援は早い方がいいのか、家族であれ介护者であれ负担は大きいだろうが、挫折してしまう介护者もあるのか、など実际の支援の进め方について踏み込んだ质问もあった。
见逃せないのは、障害者とかかわるのは怖くて、こうした気持ちを持つ人は多く、その意识を変えるのは不可能と感じるという声である。この种の意见は决して稀ではなく、社会的费用负担への拒否感も含めて、こうした声とこそ真挚に、地道に対话を重ねていく必要があると痛感する。
终了后に回収したアンケートには参加者60名のうち27名から回答が寄せられ、「とても良かった」「良かった」を合わせて9割以上と好评だった。映画のインパクトは强いので上映会とセットでのイベントは有意义だった、いろいろと知ることができた、考えさせられた、自分も含めた全员が当事者であると感じた、などのコメントがあった。
(注)
『パーソナルアシスタンス——障害者権利条约时代の新?支援システムへ——』冈部耕典着、2017年2月、生活书院
「道草」上映后、対谈する宍戸监督(左)と细野教授(右)